マタイ 2:13−23「希望を持ってやってくる」
新しい年の最初の主日を迎えました。わたしたちは昨年クリスマスを祝い、平和の主の降誕を感謝しました。けれども、そんな中でも昨年猛威を振るった感染症は収まることがなく、新規感染者数は拡大を続けています。そして年明け最初の主日は、執事会の決断により家庭礼拝として守られています。わたしたちがクリスマスを迎えても、世界は奇跡的に安全で平和になるというわけではありません。
わたしたちの現実の生活は、クリスマスの前と後で劇的に変化することはありません。
けれども、日常の継続する中、劇的な変化が起こるものではなくても、転換は確かに起こっています。
人のいのちの歩みが最も困難の極みに置かれ、失望ばかりが降りかかるように感じるときそれでもそれを越えて与えられる希望が与えられています。
イエスの誕生直後の物語として伝えられる今日の聖書の物語は、マタイにオリジナルの物語はそのことを伝えているものです。
マタイによる福音書ではイエスはベツレヘムに誕生し、東方からやってきた学者たちはイエスを拝み、王への献げ物を献げます。それはイエスの存在が世界中の人びとに知らしめられると言うことの始まりです。ところが、この学者たちの訪問は喜びの出来事ばかりをもたらすものでもありませんでした。
「ヘロデ王」は「ユダヤ人の王」が新たに生まれたと言うことを聞き危機感を覚え、自分以外にはいないはずのその「ユダヤ人の王」の存在を消し去ろうとします。その試みは「主の天使」の働きにより、その計画を知らされたヨセフが幼子とその母を連れて、属州ユダヤの地を離れる、と言う形で阻止されることになります。幼子はヨセフに連れられてエジプトに逃れます。エジプトはこうして幼子にとって重要な場所、幼子がイスラエルの民を導くものとなるための育ちの時を過ごす場所となります。時が満ちると幼子は、イスラエルの最初の預言者モーセのように、エジプトから神によって召し出されるのです。
こうしてマタイは旧約聖書の約束する救い主メシアについての約束が、イエスに於いてどのように実現するのかを語ります。しかしマタイが語るその約束の実現は、簡単に到来するものではありませんでした。
今日の聖書の中でマタイが設定する物語では、幼子イエスがエジプトに避難している間に、「ヘロデ王」は「ユダヤ人の王」となる可能性を持って生まれた男児をすべて殺害しようとします。自分の後継の芽をすべて摘んでおこうとする独裁者の暴虐によって多くの罪のない子どもの血が流されます。マタイはこの事件もまた、旧約聖書の預言の成就であるとして伝えます。
マタイによる福音書では、この出来事は「預言者エレミヤを通して言われていたこと」であると伝え、この無慈悲な大量殺戮によってその預言が「実現した」と言っています。
マタイによる福音書が引用しているのはエレミヤ書の 31 章に伝えられている預言です。
旧約聖書の預言書エレミヤ書では 31 章の 15 節から 17 節に、このように語られています。
「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む 息子たちはもういないのだから。主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る」預言の中で語られるラケル、とはヤコブの妻のラケルのことです。旧約聖書の創世記によればラケルはイスラエルのベニヤミン族の先祖の女性と言うことになります。エレミヤの預言で語られるラマには、このラケルの墓があったと言われています。かつて北イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされたとき、ベニヤミン族たちなど北イスラエル王国の人びとが捕虜として連行されて行ったときの先祖の悲しみをエレミヤは思い起こしています。働き盛りの若者が、わが子が、未来への希望を担う人びとが、自分たちの間から失われてゆく悲しみです。けれどもその出来事から 150 年くらい後に生きたエレミヤは、その苦しみの中で、必ずその悲しみがぬぐわれるときが来ると知っています。だからこそ、同じような苦しみを経験する同時代のユダに人びとに向けて、過去の出来事になぞらえて「目から涙をぬぐいなさい」と語るのです。エレミヤ書の 31 章 15 節から 17 節までの言葉の中で、大切なのは、「あなたの苦しみは報いられる」「あなたの未来には希望がある」というその言葉です。
ところが、今日の聖書における旧約聖書の引用ではその最も重要な部分が欠けています。
マタイはエレミヤの預言(31:15−17)の中でわざわざ後半 16−17 節の慰めを入れずに、31 章 15 節だけ引用しています。「あなたの苦しみは報いられる」「あなたの未来には希望がある」という本来の預言の中心的テーマであった、回復の言葉を抜きにして、喪失のみ引用しているのです。嘆きと悲嘆に開かれた言葉でもって、預言は「実現した」とここでいわれています。
目の前には苦しみと悲しみの現実しか広がっていないところに、インマヌエルの主はやってくる、そのことをマタイはこのような仕方で伝えています。絶望と喪失を奇跡的にすぐさま逆転させるものとして、インマヌエルの主は到来するのではありません。現状は簡単には好転することはなく「希望」はすぐには見えません。クリスマスを過ぎたからと行って、すべてが幸いに万事丸く収まるようなことはありません。けれどもここにある、ほら見てご覧と言わなくても「希望」は既に与えられています。インマヌエル、主はわたしたちと共にある、と言う約束は真っ暗闇の中に与えられました。その幼子は育ち、やがて恵みをもたらす者になります。それはまず、辺境地域の小村、ガリラヤのナザレに身を置
くことで、人に寄り添い人の涙をぬぐう者になるからです。だからこそ、マタイは「目から涙をぬぐいなさい」と人びとに命じません。人は涙を振り切る必要はありません。「あなたの未来には希望がある」というエレミヤの預言は、エジプトからナザレにやってきたイエスがやがて世界に実現させるものです。
わたしたちも新しい年を忍耐のうちに迎えました。昨年から社会の情勢は劇的に好転していると言うことはありません。けれどもわたしたちは、昨年主が共にいるという約束を新たに受け取り直し、そしてその主は、確かに希望を携えてわたしたち一人ひとりの人生に訪れてくれました。そこから、今年も歩み始めたいと思います。
祈りましょう
わたしたちのいのちのすべてを納めてくださる主なる神さま。新しい年を迎えました。この年もあなたに結びついて歩み通すことができるよう、一人ひとりを手の内に置いてください。困難の中にもわたしたちの人生にわたしたちの社会に、希望をもたらす首位エス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
2021
02Jan