「新しい自分に」マタイ1:18-23
クリスマスおめでとうございます。2020 年という年を振り返るとき、わたしたちは一人一人の経験の中でも、教会や学校職場や社会全体のなかでも、今年は新型コロナ感染症の影響を強く受けた年であった、と特徴づけるのではないでしょうか。
そして、そのような年であった今年を過ぎたわたしたちは、例え、病の流行がピークを過ぎたとしても、この感染症の経験前の状態に戻ることはないでしょう。そのようなものだと思います。落ち着いたら握手やハグはしたいなと、個人的には思いますが、仕事でも個人の生活でも、オンラインの会議や交わりが完全になくなることはないでしょう。そしてそのような、ツールの用い方のみではなくて、この一年で恐ろしい早さで、わたしたちの社会は一層貧富の格差を広げてしまいました。女性の失業率、外国籍の住民の貧困率はこの一年で倍増しました。社会全体の経済が悪化すると、そのしわ寄せは女性や寄留者に向かいます。この病がわたしたちの前に見せているのは、苦難はその世界の最も弱くされた所に押しつけられるのだということです。
こんな風に、わたしたちの社会があえぎ苦しみ、大事な人に手を伸ばすこともできない、そして孤立した人はますます苦しむ今年のクリスマス、わたしたちは幼子イエスを迎えます。わたしたちはどんな風に幼子を迎え入れればいいのでしょう。
礼拝で読まれた聖書の物語はヨセフがイエスの誕生に際して経験した物語です。
聖書は、ヨセフは「正しい人」であったと伝えます。「正しい人」ヨセフは、婚約者マリアが妊娠していることを聞いて困った立場に追い込まれます。人の目に、そして自分の目に「正しい人」として生きてきたヨセフの正しさは、律法というルールがその基盤であったからです。律法の定めるところにおいて、そのルールを忠実に守ることにおいてヨセフは正しかったからです。自分の生きているユダヤの社会で、人間の行動をこと細かく規定しているルールに、忠実に、従順に従うことが人にとって正しいことでした。社会のルールに従うことを積み上げ繰り広げてきたヨセフはそのようにして自分の正しさを得ていたのです。律法の定めるところでは姦淫してはならない、といいました。女性が婚姻関係を結ばずに妊娠する、ことはきわめて重大な律法違反とされました。それはただの外聞の悪いことやスキャンダルとして悪口の的になるだけではありません。場合によっては反社会的行為とすらみなされる、そのようなものです。
律法に従って自分の「正しい」生き方を作り上げてきたヨセフにとって、この妊娠は過ち以外の何ものでもありませんでした。とはいえ、ヨセフの「正しさ」は自分一人のいのちの充足を求めるような狭さを持つものでもありませんでした。聖書は「ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず」と伝えています。マリアをさらしものにして、迫害の的にすることはヨセフの望むことではない、けれども、自分は過ちを犯したマリアと共に生きることはできない、とヨセフは考えるのです。
マリアと共に生きることを選ぶのであるなら彼の「正しさ」を維持することは障壁に突き当たることになるからです。
そのような悩みのなかに置かれたヨセフに与えられるのが、天使の言葉です。マリアのお腹の子どもは神が約束した救い主であることが伝えられます。そしてマタイによる福音書は、これは旧約聖書に約束されていた「インマヌエル」という預言の成就だというのです。インマヌエルとは直訳するなら「神は我々と共におられる」という意味になるという説明まで付け加えて。
マリアの経験、結婚前に妊娠するという人間的には過ちである、人間の目には恥ずべき、忌むべき失敗のなかに「神は共にいる」と言う言葉をヨセフは受け取るのです。
自らの正しさを懸命に積み重ね、造りあげてきたヨセフにとって、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という預言は自分の今までの常識をひっくり返す経験となるのです。いつか果たされることがあるかもしれない、そんな約束が昔あったらしい、と聞いていた言葉は、予想外の仕方で自分の人生に切り込んでくる。自分が信じてきて、組み立ててきて、従ってきた「正しい」歩みをすっかりひっくり返すような形で、自分の人生に切り込んでくるのです。
神が共にいるのは、恥と失敗にまみれた場所だという言葉と共に、ヨセフはそれを受け取りました。
そしてヨセフは、それまでの自分にとっての生の証である「正しさ」を放棄する事を選びます。ヨセフはマリアを妻として迎え入れ、インマヌエルということの意味を、その生涯を通して知ることとなるのです。
ヨセフにとって、インマヌエル、「神は我々と共におられる」ということを知るとは、放棄、手放すことと結びついていました。それはいままで信じてきた世界、いままで造り上げてきた自分を放棄して、裸になることであったのです。そしてそのときに初めて、ヨセフは「共にいる」神に出会うことになるのです。
ヨーロッパの中世のキリスト教伝承の中で、イエスの誕生に際してヨセフは上着を脱いで布団にし、自分のズボンを脱いでイエスのオムツにしてあげた、という話があります。その伝承は、ヨセフがイエスの前で自分の身を守るべきものをすべて、イエスに差し出してイエスを迎えたということを伝えているのです。着ていた服を脱ぎ、履いていた靴を脱ぎ、ズボンを脱ぐヨセフは中世の終わりごろに、好んで絵画に描かれるテーマとなりました。それは、この伝承がイエスの前に無防備に自分をさらけ出すかたちでイエスを受け入れる人の姿を私たちに伝えているからです。神の子に会うのにふさわしい格好を整え美しい衣装を着て、イエスを迎えるのではない、そんな人の姿です。もっているもの、自分の身を守るべきものをすべてはぎとって、裸の姿で神の子に出会う人の姿を私たちに教えてくれるからです。
神の子の誕生は、神が力や強さや栄光を放棄する形で実現します。神の子は裸で世の中に投げ出される無力な幼児として、わたしたちに与えられます。その出来事に出会い、その出来事に応える人間には、自らにおいてもまた何かを放棄することが起こるでしょう。自分を守り作り上げてきた「正しさ」を放棄して、イエスの前に丸裸になるヨセフのように。
わたしたちにもまた、いままでしがみついてきた「正しさ」を手放すことが起こるはずです。最も弱いいのちを守るときに、インマヌエル、神がわたしたちと共にあるということにわたしたちもまた出会います。いのちを押しつぶすルールに従順であることが「正しさ」を造るのではないことを、ヨセフが学んだように、わたしたちも社会の中で、「従順」であることがいつでも「正しい」ことでもないことを、学ぶでしょう。裸で寒さに震えるいのちを守ることが、いつでもわたしたちにとって「正しい」ことです。もっとも弱いものの形をとって神が人間の間に到来するということに、またわたしたちも応えたいと思います。
祈りましょう。2020 年のクリスマスを、こうして迎えることができたことを感謝します。わたしたちの世界はその基本的な枠組みが変わろうとしています。どのようなときにもあなたの下にある正しいことをわたしたちが生きる事ができるよう