2020 年 11 月 29 日 降誕前第 4(アドヴェント第1)主日 主題「主の来臨の希望」
聖書:ローマの信徒への手紙 13 章 8−14 節
説教題「じゃぁ、愛ってなんなんだよ」
「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。」(ローマ13:
8)
キリスト教は「愛の宗教」だと言われます。ですが、私はこういうふうに言われるとむ
しろ気恥ずかしくなります。胸を張って「愛の宗教」だと言えない思いがたくさんあるか
らです。歴史をちょっとでも見れば、キリスト教は「キリスト教」の名をもってたくさん
の戦争をしてきました。愛とは真逆の行為でしょう。いや何も国に責任を転嫁するまでも
ありません。自分のことをちょっとでも真剣に顧みたら、「どこが愛? どこがキリスト
信者?」と問わざるを得ないのです。
山口県に住んでいたとき、山口大学の「生命と倫理」という連続講義で一コマ90分、
「キリスト教倫理」を講義したことがありました。その一番最初に学生たちに、隣に座っ
ている人とジャンケンをしてもらい、勝った人が負けた人に向かって「愛しています!」
と真剣に言ってもらいました。大爆笑でした。まともに言える人は少なかったのです。ど
うしてでしょう。「愛しています」という言葉を口にするのは多くの人にとって気恥ずか
しいことのようです。
今日の説教題。「じゃぁ、愛ってなんなんだよ」というセリフを、どこかで聞いたこと
はありませんか。保健室の先生に呼び止められた小学生の二人。「時代が変わっても変わ
らないもの、な~んだ?」と聞かれて「そりゃ、愛だ」と答えると、先生は「駅チカの土
地だから」と言って去って行くというコマーシャル。先生を呆然と見送りながら長瀬智也
さんが呟くセリフが「じゃぁ、愛ってなんなんだよ」です。なかなかよく出来たコマーシ
ャルですよね。大好きです。四谷新生教会の「時代が変わっても変わらないもの」は、な
んでしょう? あら、この教会も四ツ谷駅に近いわけですが…。
聖書が一番最初に日本語に訳されたのはギュッツラフによるヨハネ福音書だったと言わ
れています。手伝ったのが音吉をはじめとする3人の船乗りたちでした。昨年私は知多半
島美浜町の音吉たちの故郷を訪ねました。立派な記念碑が建っていて小さな公園になって
います。周辺は令和の世なのに音吉たちの時代とあまり変わっていないのではないかと思
えるような場所でした。ここから千石船で江戸に向かう途中嵐で難破して、多くの人が倒
れたけど、若かった3人は生き延びて太平洋を横断して…というお話しです。なのでギュ
ツラフ訳の言葉には三河弁がずいぶんと入っているらしいですね。で、例えばヨハネ福音
書第13章34節には「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたし
があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という言葉があり
ますが、ギュッツラフたちはこの「愛」を「かわいがりよう」と訳しました。「わたしが
あなたがたを愛したように」という部分は特に好きです。「ワシ オマエタチヲ カワイ
ガル トホリニ」。あぁ、イエスに愛されているなぁと実感出来ます。
でも、そう感じるということは、逆に言えば山口大学の学生たちが隣の席の人に「愛し
ています」というのが気恥ずかしいという感情の裏面でしょう。例えば日本人の心に深く
根ざしている仏教的価値観で考えるとそれがわかります。仏教では「愛」は「欲望」であ
り「煩悩のひとつ」なのです。「愛より憂いが生じ、愛より恐れが生ず。愛を離れたる人
に憂いなし、なんぞ恐れあらんや」というわけです。わたしたちだって「愛」という言葉
を聞いたら、心の中に欲望的な愛、煩悩的な愛がまず浮かぶのです。
いやいや、それは「エロース」のことでしょうと言う反論があるかも知れません。確か
にエロースというのは日本語でいえば「性愛」と訳されます。エログロのエロですよね。
でもエロースには「子孫を残すため家族を固めるエネルギー」という意味があって、基本
的には生命を維持して行くために必要不可欠なもののことを指すのです。
わたしたちはみんなこの「生命を維持する愛」によって育ってきているのです。しかし、
聖書は「愛」という言葉を「エロース」ではなく(そもそも聖書に「エロース」という単
語は一度も出て来ません)「アガペー」の訳語として使ったわけです。
「互いに愛し合いましょう」という時に、わたしたちは自分の生育歴の中から、例えば
親から受けた愛とか兄弟の中で育てられた愛とか、友情の中で感じた「愛」をモデルにし
て必死でクリスチャンらしく生きようとしますでしょう。でもそれはやがて破綻する。徹
底出来ないのはわかっているからです。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも
残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(Ⅰコリント13:13)という言葉
は知っているけど、自分のもつ「愛」が永遠ではないことを自分がいちばんよく知ってい
るでしょう。「隣人を自分のように愛しなさい。」(マルコ12:31)という言葉だっ
てよく知っている。でも自分を愛することが出来ない人も大勢います。生育歴の中でそれ
が許されなかったのです。
「じゃぁ、愛ってなんなんだよ」。
今日冒頭でお読みしました聖書のことばは、ちょっと不思議な言い回しです。「互いに愛
し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。」。意味が伝わりにくいです
ね。「聖書新改訳2017」ではこう訳してあります。「だれに対しても、何の借りもあ
ってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。」。つまり、「互いに愛し合
う」ということだけは、その借りは決して返済しきれないというのです。それは端的には
神がわたしたちを愛してくださっていることそのものでしょう。神の愛は、わたしたちが
一生かけて償っても償っても返しきれることではないのです。神は私がどういう人間であ
っても愛してくれます。「よい子だから、出来る子だから」という条件はない。だから神
さまの前に不利なことは一つもない。驚くべきことです。一生かかっても返せないけど、
じゃぁ返さなくても良いのか。そうではなく、わたしたちに委ねられたこの世界で、わた
したちはできるかぎり神さまの愛を実践して行く。自分の生育歴の中からモデルを捜した
って無理です。そもそも問われているのはそんな「愛」ではないからです。そうではなく、
目の前の人を「大切にし続ける」。それがここで言われている「愛」です。好き嫌いでは
なく、大切にする。敵であっても大切にする。感情に左右されるのではなく忍耐強く相手
をすることなのですね。
神さまは私がどういう人間であっても最後まで相手をし続けてくれる方でしょう。そし
てそのためにイェスはいのちを捨てた人でした。敵に見切りを付けることをせずに、殺さ
れるのを覚悟で最後まで相手をし続けた。
わたしたちは、そのイエスをお迎えする季節を迎えたのですね。
祈ります。
主なる神さま。今日こうして四谷新生教会の方々と一緒に礼拝を捧げることが出来まし
た。感謝いたします。
思いもしなかったことが襲ってきたこの年でした。当たり前のことを当たり前のように
続けることが出来ない年でした。でも、たとえ何が起こっても、あなたはわたしたち一人
ひとりをいつまでも大切にし続けてくださっています。わたしたちも出会う一人ひとりを
大切にし続ける歩みを進めることが出来ますように。
この教会に連なるすべての人の上に、幼稚園につならる子どもたち、その背後にある一
つひとつのご家族をあなたにお委ねします。どうぞお守りください。
感謝して、主イエスキリストの御名によってこの祈りを献げます。
2020
27Nov