2020年11月15日
「約束は続く」申命記18:15−22
わたしたちの持っている教会の暦は、教会の暦の始まり、わたしたちの主イエス・キリストの誕生に向けて時を刻み始めています。週報には降誕前第6主日、と記されています。教会の暦は、この時期、どのようにしてわたしたちの世界に救い主が与えられたのかを思い起こすことになります。
とりわけ今年は、昨年と全く異なる状況の中でわたしたちは救い主を受け取ることになります。人と触れ合うことや抱きしめることが、人を害することにもなる。人と食事を共にすることが、人のいのちを損なうことにもなりうる、そんな世界にわたしたちは救い主を迎え入れます。人に感染させないためのマスクをつけることは、自分の人生のコントロールを失うことだといわんばかりに、「マスクの装着は人権抑圧だ」と叫ぶ人がいる。グループ内で感染がおこった学生を、インターネットで中傷する人がいる。わたしたちはこんな世界に、救い主を迎え入れます。混乱と不信の内にあるわたしたちは、自分たちがどのようなもので、そこになぜ救い主が与えられるのかを、知らないとならないでしょう。
申命記は「約束の地」を目前にしてモーセがイスラエルの民に語った物語です。1章の初めには「モーセはイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた。それは、ヨルダン川の東側にある荒れ野」であったと記されています。この川を渡れば、もうすぐ約束の地に足を踏み入れることができる、という時のことだと聖書は伝えます。
34章まで続く長いながいモーセの取り次いだ言葉は、約束の地に入る直前です。それはどのような時なのでしょうか。
その約束の土地はイスラエルの民がずっと待ち望んできた、理想の生き方を選べる場所、夢のように幸せに生きることができるはずの場所です。そしてそこに入る瞬間を、待ち望んできた人々にとって、それは苦しみからの解放の時、喜びのクライマックスです。荒れ野での長い年月は今終わりを告げようとしているのに、モーセはその約束の土地に簡単に入らせてはくれません。
荒れ野での日々は、イスラエルの民にとって忘れ去ってしまいたいような経験でした。食べるものもない、頼るものもない。前に見える安心は何もない。そこではただ、モーセを通して与えられる神の言葉だけが、信じるべきもの、頼るべきものとしてあるだけです。形もない、そんな神の言葉にだけ信頼することは、イスラエルの民にとってとても難しいことでした。神などそもそもいなかったのだと思った時もあれば、こんな神に信頼する意味などどこにもないと思ったこともある。イスラエルの民にとって、荒れ野での日々とはそのようなものでありました。神に対する、不信や不満でいっぱいになって、心がふさがれて、自分の心の奥底に神に対する思いがあるのかどうかを確かめなければならない日々であったのです。
荒れ野における日々とは、そのようにして自らの内面と向き合わざるを得なかった日々です。イスラエルの民にとってそれは、神への不信だけではなく、自分の中に確実な信仰や動かない信頼を見出すことのできなかった、自分自身への不信を知った日々でもあるのです。
そのような思い出したくもない日々、失敗の思い出にいろどられた荒れ野の時はようやくすぎさります。自分たちの目の前には今「約束の地」として呼ばれる、神の民としてあるべき生を送ることのできる場所がひろがっている。新しい出発を記すことのできる白い紙が広がっているのです。間違いのない歩みがそこでは進めてゆくことができるだろうと、心躍らせて足を踏み入れることのできる場所がひろがっている。
その時に、モーセは、ただ一目散にそこに向かって駆け込んでいくことを赦しませんでした。これまでの導き手であるモーセから語られることは、過ぎてきた日々の過ちであり、そしてその過ちを見据えたうえでこれからの進むべき道筋であるのです。
礼拝で読まれた18章15節からは神の言葉を取り次ぐものについて語られています。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる」とモーセは伝えます。ここでいわれる「預言者」とは、神に呼ばれて神の言葉を同胞に取り次ぐように授けられる者のことを指しているのです。
大昔の人びとは、自然現象に神の意志を認めました。たとえば、激しい嵐に接すると、それは神の怒りだと信じましたし、大風は神の叫びであったのです。古代のイスラエル人たちもそれは同じでした。旧約聖書では神が現れるときに雷鳴がとどろきました。耳をつんざくラッパの響きのような大音響、と記されていることもあります。とにかく人間が想像しうる限りの大きな音であるのでしょう。炎や、地面から吹き出す煙に神の意志を見ることもありました。それらの人間がコントロールすることのできない自然の力に神の力を感じることは私たちにとっても納得のいくことです。けれどもそれは、落雷や噴出する熱風などに身をさらす危険を伴うことでもありました。激しい自然の力の前に身をさらして直接神の言葉を受け取ることは、古代人にとって命を脅かすようなことがらでもありました。そこで神の言葉を直接聞いて民が「死ぬことのないように」(16節)イスラエルの民は早い時期から預言者を持つことになりました。
預言者はイスラエルの民を代表して神の前に立たされます。預言者は時には自分の命を危険にさらすような思いをして神の前に自分を立たせる存在です。またイスラエルの民はそのような預言者が語ることを神の声として受け取ることが求められました。
預言者は、たとえ自分の居心地が悪くなったとしても、神の言葉に忠実に従うことが求められ、イスラエルの民には、その預言者の語る言葉に耳を傾け、共に神の意志を探る、ということが求められました。「彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する」語るものも聞く者も、それぞれの務めはそんなに容易なものではありませんでした。20節からはこんな風に続きます。「ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手に私の名によってかたり、あるいは、他の神々の名によってかたるならば、その預言者は死なねばならない」人は神の言葉がなんであるのかを注意深く聞く必要があるということが示されます。場合によっては、預言、神の言葉の名前を借りて、自分の解釈を押し付けているものなのかも知れない、もしそうであるなら、預言者はその職務についていてはいけない、ということです。イスラエルの民と預言者とどちらがより重い責任を持たされているのか、わかりません。どちらも、できうる限り、自分の良心に誠実に神の意志を探らなければならないという点においては等しい責任を負っているのですから。
申命記の中で、モーセはこの言葉を、新天地に向けて、そこで始まる新しい歩みに向けて希望に満ちた人々に語ります。
苦しい経験を通り抜けて、これからはバラ色に輝く歩みが待っている、そう信じたい人々に向けて。けれどもそのときに直面しなければならないのは、自分たちの失敗に満ちた歩みです。神に信頼すること、神に聞くことをやり抜くことのできなかった歩みを直視したうえで、その歩みの先にそれでも与えられる、神の導きを知るためです。
わたしたちの失敗を、不信を超えて、それでも神は導きを与える。だからこそわたしたちは自分の歩みの中で、できうる限り自分の良心に誠実に神の意志を探らなければなりません。今日も今年も神の救いの約束は続きます。決してバラ色ではない、歩みの中で、確かに続く救いを見上げ、それにこたえるものとして歩みましょう。