誠実なる共同体
使徒言行録4:32-5:11
初代教会の教会共同体とはどのようなものだったのか。」を、新約聖書の中でもっとも恐ろしく、取り扱いの難しい「アナニアとサフィラ」の聖書箇所から聞いてゆきたい。
初代教会の現実。急激に教勢拡大。非ユダヤ人やそれまでは社会から疎外されていた人々にも、救いの手を。だから、貧しい人が多かった。差別や生きづらさも負っている人々も。
教会の課題の一つが経済的なものであったのは、今も昔も同じ。救いと成長のためか、維持のためか。は大きな違いだが。
その様な状況の中で、経済的な物をはじめ、それぞれがそれぞれに、信仰の想いの中で共に分かち合っていた。
「心も想いも一つにし、すべてのものを共有に。」
分かち合う共同体。関わり合う共同体。交わり合う共同体。支え合う共同体。祈り合う共同体。信じあう共同体。
その様な中で、「捧げる人」の一人として、バルナバという人物が。パウロの伝道のパートナー。異邦人伝道の中心人物。カトリックなどでは、聖人とされている。
バルナバは、信仰に応じてバルナバにできることを最大限に行った。伝道においても、捧げる。ということにおいても。その姿が聖書に描かれている。
皆さんもご存知の通り、時間であれ、経済的な物であれ、想いであれ、「捧げること」は尊いことです。なぜならばそれは、自らを割く行為だから。自らを割くことは、痛みを覚える、痛みを伴うことだから。
では信仰者はどうしてそのようなことをしたいのか?できるのか?
それは、先だって主イエスが私たちに対して行ってくださったから。「お返しする」その一心ではないでしょうか。そうでなければできませんし、想いも湧きません。そしてなにより、続けることはできません。
教会共同体は今も昔も、心も想いも一つにして、共に捧げ合い、支え合い、祈り合い、尊敬し合い、信頼し合う共同体であり、その中心に、その根底にあるものは、主イエスへの信仰。
現代は、「分断の社会」といわれています。国家間・世代間・経済をはじめとして社会的な中でも、分断と対立が起きています。
その中にあって、私たちも同じく多種多様。教会ほど異世代で性別も、社会的立場も何もかも違う人々が、同じ時間に同じ場所に集うコミュニティはないでしょう。そのような我々が一つになれるのは、主イエスの信仰によってはじめて、それが可能とされるのでしょうし、それがなければ難しいのではないでしょうか。
讃美歌21:162番
「見よ兄弟が共に座っている。なんという恵み。なんという喜び。」
…教会ではそれぞれのことを「兄弟姉妹」という。その意味は、同じ・一致とともに、「まったく違う」という意味も持つ。
全く違う人々が、共に座ることに意味がある。本当は一緒になり得ない人々が。出会い得ない人々が。心を一つにしえない私たちが。
主イエスへの信仰によって、一つにされる。信仰によって我々は、はじめて他者に対しても誠実になることができる。
そして、それを理解しない。共同体を破壊する例が次に示される。「アナニアとサフィラ」
彼らは、「捧げなかった」「なまけた」からではない。現に捧げた。それは素晴らしいこと。
なにがダメだったのか。それは、「一部を全てとして申告した」こと。
4節には、「虚偽申告する必要もなかったし、そもそも捧げなくてもよかった」とまで書いてある。
聖書には、キリスト教にはその最初から、「量的な全て、全部を捧げつくす」ことを推奨などしていない。「皆がそれぞれに」はあっても、「全部」はない。
アナニアとサフィラの罪は、「欺いた」から。主と、主の体なる共同体を。
彼らの罪は、自分を見ていたこと。いや、自分しか見ていなかった。「この信じ信頼し合う共同体」の中で。
自己を中心とする。自分しか見ない。よく見せようとする。ひとり占めする。…私たちは弱い。自らを中心に。どこまでいっても。
しかし主は、そこに罪を見いだす。
人の歴史は。人の混乱は。痛みは、自己を中心にすることから始まる。アダムの罪も、神との約束ではなく、自らが善悪を判断し、自らを中心にした(神から自立する)ことから。
自分がよい。自分だけがよい。…では、教会共同体は壊れてしまう。滅ぶ。私たちはアナニアとサフィラのようなことはない。しない。
しかしこの教会共同体において、欺きだけが自己中心ではない。
「自分の間はこの教会があってほしい。葬儀まではあってほしい。(その先は分からない)」では滅ぶ。
仲間を、他者を、次世代を。それは協力を生み、一致を生み、教会を強くする。
私たちは、共同体の内に対しても信仰による誠実さをもって、一致を。そして、共同体の外に対しても分かち合ってゆきたい。
私たちが受けているものを。愛、恵み、慈しみ、赦しを、外に対しても共に分かち合いたい。伝道・宣教の主体として、他者に、次の世代に伝えてゆきたい。
祈り:
主なる神さま。御名を賛美いたします。
コロナ禍にありながら、共に集えることを、あなたに賛美と礼拝を捧げることができますことを感謝します。
また同じくこの共同体に在って、その場その場であなたを覚え礼拝を捧げている兄弟姉妹のことを覚えます。どこにいてもあなたによって一致し、共に祈り合い、この共同体を一つとさせてください。
我々は自己を中心に置くことを知っています。そしてその先にあるのは滅びであることも。私たちの中にある、アナニアとサフィラを退け、パウロとバルナバの誠実さをもって、共同体の中にも、外の他者にも愛をもって仕え、あなたを宣べ伝えてゆく一人とさせてください。
主イエスキリストの御名によって祈ります。
アーメン。