2020年10月4日(世界聖餐日)
四谷新生教会礼拝説教荒瀬牧彦
ヨハネによる福音書6:1-15
昨年の世界聖餐日を祝った時、1年後にこのような状況に自分たちが置かれているとはまったく想像しませんでした。新型コロナウィルスは、わたしたちの「食卓を囲む」、「楽しく語らいながら、みんなでごちそうを味わう」という至高の喜びに、一時停止をかけています。しかし、人間にとってこの喜びは必須です。今回の災難によってわたしたちはその喜びの値高さをいよいよ強く認識させられている、ともいえるでしょう。新たな思いで、ヨハネ福音書版の「五千人の食事」の記事を読み直したいと思います。
イエス様はフィリポにこう問いかけました。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。
これは単純にパンの入手先を知りたくて聞いているのではありません。この福音書が得意とするダブルミーニングの手法です。「パンはどこに?」というのは、「イエスとは誰か」「イエスは何をしに来られたのか」を考えさせる問いといっていいでしょう。わたしたちはこの問いから、いのちパンをあなたはどこに見い出すのか。人が生きていくために必要な魂の糧はどこにあるのか」を問いかけられているのです。フィリポはこの問いに答えられませんでしたが、その翌日にイエス様ご自身が教えてくださいました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(6:35)。そう、命のパンを得たいものは、主イエスのもとへ行かねばなりません。
では、イエス様はこの食事の出来事を何の「しるし」として行われたのでしょう。主イエスが、ご自身を「命のパン」として与えられる。それは、あなたたちが神様に愛されている。神の愛の中を生きるよう召されている。神の家族の食卓に招かれて、永遠の命を生きる。そのことのしるしではないでしょうか。
多くの人は勘違いをして、誤った期待をイエスという人にかけたかもしれませんが、これは、この方はパンを増やしてくれる。すなわち我々に経済的繁栄をもたらして、我々の欲求を満たしてくれる強い王が到来したのだ、というしるしではありません。神が独り子を命のパンとしてこの世に与えてくださった。我々はイエスというパンをいただくとき、本当に多くの人と一つの食卓を囲んで、満たされる――そのような愛のしるしなのです。
神の愛そのものであるキリストが中心におられる食卓。そこでは、不思議なことが起こります。イエス様は不思議な食事を見せてくださいました。
大麦のパン五つと魚二匹をもっている「少年」がそこにいました。この少年は、自分の家族のための食糧を持っていたのでしょうか。「どこでパンを買えばよいだろうか」というイエス様の声を聞いて、「これをどうぞ」と持ってきたのかもしれません。それはこの文脈からは大いに想像できることです。
でもアンデレはこの少年を否定しました。「何の役にも立たないでしょう」と言ったのです。ひどいこと言うなあと思いますが、でも実際、我々はこういう価値判断をしょっちゅうしているのではありませんか。「これっぱかしでは何の役にも立たないよ」。「あなたなんて何の役にも立たないよ」と。
でも、主イエスが中心におられる神の家族の食卓では、「何の役にも立たない」というアンデレ的見解が、覆されます。役に立ったのです。いや、もっと正確に言えば、神の愛そのものである主イエスが、この少年の差し出したものを、この少年のしたことを、そしてこの少年そのものを、役に立ててくださったのです。大いに役に立ててくださったのです。小さな人、小さなことの中にある価値をイエス様が掘り出してくださるからです。
食後のイエス様の指示も、同じ意味で重要です。イエス様は「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」といわれました。この「パン屑」は、「かけら」とか「一片」という意味の「クラスマ」というギリシア語です。後にこのクラスマは教会用語になって、聖餐の時のパン一かけを呼ぶ言葉になります。(聖餐で、小さく裂かれたパンを受ける時、この「パン屑」を思い出してください。)
満腹した時、目の前に小さくちぎられたパンのかけらが残っていたら、そのまま残しておくというのが普通でしょう。でも、イエス様は捨てちゃだめだというのです。これも深い意味がこめられている言葉でしょう。
「無駄にならないように」という言葉の「無駄になる」はギリシア語でアポリューミです。これが他のどんな箇所で使われているかを調べると、たとえば、ルカの福音書15章のイエス様の譬え、「ある人が百匹の羊を持っていて、その一匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して捜しにいく」というところの、「見失う」がアポリューミです。ある女が十枚の銀貨の一枚をなくしたら家中探し回って、みつけたら大喜びをしてみんなを招いてパーティをするというところの、「無くした銀貨を見つけましたから」の「無くす」も同じアポリューミです。また、あの有名なヨハネ3章16節。「神は、その独り子をお与えになるほどに世を愛された。独り子を信じる者が、一人も滅びないで永遠の命を受けるためである」の中の「滅びる」もそうなのです。
小さなパンひとかけは、わたしたち人間をあらわすのではないでしょうか。自分が満ち足りればよいというのではない。まだ他の人たちがいるのです。パンの屑は一人一人の人間です。イエス様はその小さなひとかけも、無くしたくない、見失いたくない、滅びてほしくないのです。
「集めなさい」といわれて、弟子たちがパン屑を集めたら12の籠がいっぱいになりました。これがつまり、われわれ教会ではないでしょうか。神様は小さなひとかけひとかけを決して無駄にせず、それを集めて、豊かな教会という「からだ」をつくってくださるのです。
「何の役にも立たない」といわせない神の愛がここにあります。パンのひとかけをも無駄にさせない神の愛がここにあります。
食事は質素でした。「大麦のパン」とありますが、これはどうも貧しい人の普通のパンということだったようです。貧しい農民にとってパンといえば大麦のパンだったのです。この時代、次第に小麦が普及して、小麦のパンがとってかわるようになるのですが、まだ都市のお金のある階級の人たちだけが食べられるもので、パレスチナの貧しい人たちは小麦のようにはおいしくない大麦のパンを食べていたのです。でも、そこで食べた人たちは本当に豊かに満たされました。
何が中心にあるか。それが問題です。「どこでパンを買えばよいだろうか」。中心に、命のパン、イエス・キリストがおられます。神の愛がそこにあります。そうであるなら、たとえほんの少しの材料しかそこになくても、みんなが分け合い、満ち足りる、豊かな食卓がそこにあらわれるのです。
世界祈祷日の今日、わたしたちはあらためてキリストを囲む食卓の豊かさ、ということを考え、わたしたちが与えられている恵みに感謝したいものです。
わたしたちは大体においてケチです。だから「分けると減る」と考えています。だから、分けたくない。分ける仲間を増やしたくない。そこに排除の論理が働きます。でも、キリストが食卓の中心におられるところでは、まったく異なる真理が現実化するのです。そこでは「分けると増える」のです。「分ける人数が多いと乏しくなる」のではなく、「分ければ分けるほど豊かになる」のです。不思議な食卓です。
<祈り>
神さま、イエス・キリストが中心にしてくださる不思議な食卓に招いてくださっていることを感謝します。大麦のパン五つと魚二匹、そしてそれを差し出した少年をイエス様は豊かに用いてくださいました。だから、わたしたち小さなパン屑も大切にされると信じることができます。ありがとうございます。
神さま、わたしたちに、分ければ分けるほど豊かにある不思議な食卓の恵みを味わわせてください。そして、どうか世界全体がそういうところになりますように。主イエスの御名によって。アーメン。