四谷新生教会2020.9.27
ヨハネによる福音書10:22-30
「主イエスが守り抜かれる人達」
ヨハネによる福音書の1章18節に、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と書いてあります。人の目で見ることのできない神様を知りたければイエス様を見なさい、ということです。この福音書を書き記した人物は、イエス様だけが神を表してくれたと確信していたわけです。そして、このことは西暦2020年の今を、神様を信じ、神様に生かされている私達もまた同じなのではないでしょうか。
それでは、イエス様は神様の何を表して下さったのでしょうか。それは神様が大切にされていたことです。言い換えれば、神のみ心、神の思いです。神のみ心、思いということが良く分かる聖書個所の一つは、旧約聖書の申命記10章17節から19節です。そこには、「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった」と書かれています。
この聖書の言葉から分かるのは、当時のイスラエルの社会において、生活が苦しかった孤児、寡婦、寄留者をまず大切にすることが、神様のみ心、思いなのだということです。つまり神様は、社会の中で小さくされている人や虐げられ、貧しい人が、そこから解放され、人権や生活の権利を回復することを何よりも大切にされているということです。
イエス様は神様のみ心、思いを十分に知っていましたので、例えばヨハネによる福音書の5章では、38年間も病気で体が麻痺していた人を癒されたり、7章では、不貞行為をした女性が石打の刑に処せられようとした時に、処刑する者達自身の罪を問うことを通して、この女性を救われ、罪を赦されました。また、同じく7章で、イエス様は「私は命のパンである」と言われ、ご自身が神のもとから来て、人に命を与える者だと示されました。
この他にもイエス様は、神の名によって数々の言葉や業を通して、神様のみ心、思いを人達に示されましたが、その言葉や業を神のみ心、思いであると信じることのできない人達がいました。その人達を、ヨハネによる福音書では「ユダヤ人達」と呼んでいますが、当時の宗教的、政治的な指導者であり、権力を持っていた者たちでした。
この権力者であるユダヤ人達が、12月に祝われた「神殿奉献記念祭」の日に、エルサレム神殿の回廊を歩いていたイエス様を取り囲んで、
「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」と強く迫ったのです。それに対してイエス様は、「メシア(救い主)」とは言っていないが、ご自身がメシアなる存在であることを言葉や業ですでに示していると答えました。そして、そのことに気付かないのは、「あなたがたは信じない」からだと指摘します。
もとよりユダヤ人達は、イエス様を田舎もんで学問もしていない、大食漢で大酒飲み、徴税人や罪びとの仲間などと呼んで、軽蔑し、拒絶していましたので、彼らが今回、イエス様に「メシアだと言いなさい」と求めているのは、それを聞いて、イエス様をメシアだと信じるためではなく、イエス様にメシアだと言わせて、それを口実にして、「神への冒涜罪」で捕えることが目的でありました。ユダヤ人達の魂胆を知っているイエス様は、彼らに対して、「あなたがたは信じない。わたしの羊ではないからである。」と、イエス様を信じることのできないユダヤ人達側の問題点を、はっきりと指摘されました。
ここで言われている「羊」とは、イエス様を信じることのできる人達のたとえです。ではどんな人達なのでしょうか。それは、神様がみ心、思いとして大切にされた、孤児や寡婦、寄留者であり、社会の中で小さくされていた人や虐げられ、貧しい人でした。このような人達は、イエス様の「声を聞き分ける」ことができるのです。つまり、誰がメシア(救い主)であるかが分かるということです。そして、イエス様はその人達の責任を負って下さり、その人達はイエス様へ全幅の信頼を寄せるのです。
さらには、イエス様の羊である人達は、命のパンであるイエス様から「永遠の命」を与えられ、決して滅びず、誰もその人達をイエス様の許から引き離すことはできないと言います。永遠の命とは、不老不死というものではなく、メシア(救い主)であるイエス様と、今もこれからもずっと、「共にあり続ける」ということです。当時、羊はお金と同等の価値を持つ財産であり、貴重な食材でもあったので、とても大事な家畜でした。その羊をイエス様が自分を信じる人達のたとえにしたのは、いかに愛すべき大切な存在であるということを表わすためでした。
私が住む横浜市が、「カジノを含む統合型リゾート施設(IR)」の誘致を表明してから1年になりました。IR事業を巡る汚職事件や新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、計画が進まない中、反対派の市民らは誘致の是非を問う住民投票や、林文子市長のリコール(解職請求)に向けた活動をしています。横浜市が予定しているIRの誘致先は、山下ふ頭です。氷川丸が停泊している山下公園の隣りになります。私の自宅から徒歩約40分、職場の幼稚園からだと25分程のところです。私は当初からギャンブルの収益で市の財政を賄うという政策には反対をしています。また、日本や外国から、そして子どもから大人まで、大勢の人が訪れる観光地に、また私が勤務する幼稚園をはじめ幾つもの学校、幼稚園、保育園がある地域に誘致することにも問題を感じています。社会の中にあっては小さく、弱い存在である子ども達の教育環境を守り、整備していくことは、社会の大きな義務であり責任だと思います。
現在、林市長はIRについて、「将来の市財政に必要。コロナ後の有力な経済回復策の1つ」と話し、誘致を進める姿勢を崩していません。まだまだ予断を許さない状況ですが、横浜市の政財界に影響力を持つ、この8月まで横浜港運協会の会長を務めた藤木幸夫さんが、誘致に対して強硬に反対をしています。藤木さんは菅義偉(よしひで)首相の恩師の一人としても知られています。藤木さんは現在90歳になりますが、お孫さんが日本キリスト教団の教会付属の幼稚園に入園したことがきっかけで、その教会の礼拝に出席をされるようになったと、その教会の牧師より聞きました。私も一度だけですが礼拝を共にし、礼拝後に少しの時間でしたが、カジノの誘致について言葉を交わしました。
実は、もともと藤木さんはカジノ誘致に賛成をしていました。しかし、後に「命がけで反対する」とまで変わったのです。変わった理由は、ギャンブル依存で苦しむ親を持つ子どもの姿を目の当たりし、またギャンブル依存症の深刻さを専門家から学んだからだと話しています。
藤木幸夫さんはクリスチャンではありませんが、礼拝への出席などを通して、人の目に見ることのできない神様のみ心、思いである、この世で小さく、弱く、貧しくされた人を大切にするということを、イエス様を通して示されているのだと信じます。
今日の聖書箇所の最後に、イエス様は「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」と言います。父である神様がイエス様に下さったのは、イエス様を信じることのできる人達です。そしてこの人達は、この世では小さく、弱く、貧しく、虐げられている人達であるけれども、神のみ心、思いに適う尊い存在であり、この人達を神から引き離すことは、誰にもできないと言います。このようにして、イエス様は「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」と、父である神と一つとなり、小さく、弱く、貧しく、虐げられている人達を守り抜かれているのです。
(祈祷)
主なる神様、あなたのみ名を崇め讃美いたします。私達はいかなる状況、どんな場所にありましても、あなたによって備えていただいた主日礼拝を守ることができますことを喜び、感謝いたします。私達が礼拝を通して、神様が大切にされているみ心、思いをいよいよ深めることができ、あなたのみ心、思いをイエス様に倣い、日々の生活の中で取り組んでいくことができますよう、いよいよ信仰を養って下さい。このお祈りを主イエス・キリストのみ名によっておささげいたします。アーメン。