2020年9月13日四谷新生教会
「神の愚かさ、神の弱さ」Ⅰコリント1:18~25
コリントの信徒への手紙。コリントという町はマケドニア州とアカイア州をつなぐ地点にあり、古代世界における最大の商業貿易の中心地の一つ。しかしコリントにはもう一つの側面が。大きな町には付き物である、市民生活の荒廃と堕落。しかしそのような町にパウロによって主の教会が建てられ、このコリントの教会がパウロ宣教の最も成功した教会となり、多くのキリスト者が与えられていく。
この、荒廃の中にあるコリントの教会の歩みを通して、課題多き現代社会の中にある私たちの教会も慰めと力を受けてゆきたいと願います。
まずパウロは言います。十字架の出来事は、「神の力」「神の知恵」であり、すべての人々を救う絶対的な力を持つと。しかし、同時にそれは、ユダヤ人にもギリシア人にも「受け入れがたい出来事」である。と。
なぜか?それは、主イエスの十字架以上に、彼らが「頼るものを他に持っている」から。ユダヤ人は割礼や律法などの「しるし」であり、ギリシア人には人間的・知的な「知恵」でした。
これは私たちの現代も同じではないか。十字架の出来事は、現代を生きる多くの人にとって受け入れがたい。十字架の出来事、主を受け入れることより、知恵(科学や経済)やしるし(人種・国籍・風習)を、この社会は選ぶ。
十字架の救いは、眼に映る強さや奇跡のようなものではない。その十字架上の救い主の姿は弱々しく、そのような弱々しい神に救いなどありえないと。弱い者・弱い神が、強い者・すでに万能となったかのような人間を救うことなど到底無理な話しであり、理論的ではないと。そして多くの人は嘲笑する。「宗教など、神など弱い人の信じるものだ。私は神にすがるほど弱くはない」と。
若者と日々向き合っていると、より深い社会の闇を感じます。彼らを取り巻く状況が刻一刻と悪くなっていることを感じます。それは、もはや「強さを誇ること」すら望めず、そんな余裕もなく、日々と明日の生活のために「それどころではない」状況です。悔い改めや主への立ち返りという「十字架の言葉と救い」に出会う余裕はなく、大いなる不安の前に「今、目の前のことをやるしかない」状況なのです。そのような若者を取り巻く雰囲気を醸成しているのが、現代のわれわれの社会。
私たちの現代社会も、コリントの街と人々と同じくパウロの求めている「神の力、神の知恵」ではなく、「私たちの力、私たちの知恵」を求める強い力(経済)に支配されつつあるということでしょう。
株価で為政者の善し悪しが計られ、原発事故の痛みよりも新型コロナウィルスへの恐れという命や生活、心の問題よりも経済性を重視するこの国、この社会。経済至上主義の前に、平和も、弱者を想う愛も、神を見上げる想いも全ては外に置かれてしまっている。この現代社会はコリントの町と本質的には同じなのだと。
この社会は、神を受け入れず、主を望まず、聖書を笑い、教会を疎み、滅びに向かうのか。この社会に立つ教会も、ともに滅んでゆくのか。
パウロは言います。「いや違う」と。
21節。「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じるものを救おうとお考えになった。」
世が、社会が、コリントの街のように荒廃し、他者を想うより、平和を願うより、神を慕うより、この世に執着し、病み、不安に満ちているからこそ、主は「救う」と宣言される。…そして、その救いは「宣教」を通してのみ可能なのだと。
この社会を救うのは、隣人を救うのは、不安の中にあるすべての人を救うのは、この世に希望と光を照らすのは、「宣教」なのだと。「愚かしいほど地道な、伝道」を通して。
主に命じられ、主に押し出された、この教会と私たち一人一人を通して福音が広がってゆく。「それのみ」「それしか」救いの道はないのだと。
パウロは、本日の聖書箇所の最後を、美しく味わい深い言葉で締めくくります。
「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」
パウロは神の愚かさと弱さを誇るのです。「主なる神は、十字架のキリストは、愚かで弱い」と。あのように、十字架の上で敗北者のように惨めに愚かで弱々しく死なれたのか?なぜ主なる神は、「愚か」で「弱く」なる必要があったのか?なぜ人々に、私たちにそのように侮られる必要があったのか?なぜ痛み、苦しむ必要があったのか?
…それは、ただ一点。「私たちの救いの為」です。「私たち一人ひとりの救い」、その為だけに十字架を備えてくださった。神様は、愚かにも私たち人間の身代わりとして独り子を十字架にかけてくださった。罪ある我々の身代わりとして、神がご自分の独り子を、ご自分自身を罪あるものとして十字架上で裁かれた。
その我々の目には「愚かしい」とも映る、「弱々しく」も映る主の十字架、神のご決断。しなしなんということか、その愛なる主の十字架によって、キリストの死によって、私たちは生かされている。
神の愚かさや弱さすらも、被造物である私たちを救い、生かすには十分である。と。
今、社会は様々なところでささくれ立ち、対立し、また不安に覆われています。そのような中だからこそ、私たちは証したいと思います。私たち一人一人、神の力に満たされ感謝して「平和の主」を証しする、そのような信仰の道を力強く歩みたいと願います。
2020
12Sep