四谷新生教会2020.8.23ヨハネによる福音書7:40-52
「偏見・差別をなくすために」森田裕明牧師
先月7月1日に横浜市の隣の川崎市で、全国初の刑事罰付きのヘイトスピーチ禁止条例、正式名は「川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例」が全面的に施行されました。条例は昨年12月に制定されました。条例の施行によって市長の勧告や命令にもかかわらず、ヘイト行為を3度繰り返した違反者に対し、市は氏名などを公表して捜査機関に告発します。有罪の場合は最高50万円の罰金刑を科すことになります。
川崎市が規定するヘイト行為とは、外国にルーツがある住民に対して、道路や公園など公共の場で、「日本から出て行け」「祖国に帰れ」等と追い出そうとしたり、「ウジ虫」「ダニ」「死ね」等と罵る言動等を内容としています。ご存知の方も多いと思いますが、川崎市は在日朝鮮人・韓国人が多く住む街で、2013年以降ヘイトスピーチが激しく繰り返されるようになり、大きな社会問題となっていました。
実際、ほとんどの人はヘイトスピーチをしません。ごく一部の心無い人の卑劣な行いです。しかし、いつの時代、どの国や民族においても、人の偏見や差別がもたらすヘイトスピーチは無くなりません。そのことは、主イエスの時代のことについても聖書から知ることができます。
主イエスはユダヤ教の三大祭りの一つである、かつてイスラエルの民がエジプトから逃れた後、荒野で40年間、苦難の天幕生活をしたことを記念した仮庵祭が盛大に祝われた最終日に、祭司達が神殿に注ぐ聖なる水であるシロアムの池の湧き水を汲みに来たときに、大声で「渇いている人はだれでも、わたしのもとへ来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われました。この言葉は、主イエスご自身が人を生かす水を与え、聖霊を注ぐことを示している言葉でした。
この主イエスの言葉を聞いた多くの人達は、大変驚きました。「この人は、本当にあの預言者だ」と言ったり、「この人はメシア」と言う人もいました。「あの預言者」とは、旧約聖書申命記18章5節の「私のような預言者を立てられる。あなた達は彼に聞き従わなければならない」と語ったモーセのことです。「メシア」は救い主という意味で「キリスト」です。この人達は、今迄の人生の中で聞いたこともなかった主イエスの言葉に驚き、感動し、主イエスを偉大なモーセの再来、いやそれを超えた、神から遣わされた救い主ではないかと期待を持ったのです。
一方で別の意味で驚いた人達がいました。その人たちは、「メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」と驚き、疑念を抱いたのです。「聖書に書いてある」という聖書の個所は、旧約聖書ミカ書5章1節で、ベツレヘムから「イスラエルを治める者が出る」と書かれています。当時すでに主イエスは、ガリラヤのナザレの出身であることは知られていて、ガリラヤは辺境の地であり、異邦人との行き来が盛んで、ユダヤ教の指導者達からは蔑まれた地方でした。それゆえにガリラヤからメシアが出るはずはなく、聖書に書いてあるようにベツレヘムから出るのだ、と思われていました。
このように同じ主イエスの言葉を聞いた人達の中で、主イエスへの評価が完全に分かれ、拒否する人達の中には、主イエスへの怒りから捕らえようとする者もいたようですが、実際「手をかける者はなかった」とあります。なぜなら7章30節に書かれていますように、「イエスの時がまだ来ていなかったから」です。「イエスの時」とは「主イエスが十字架につけられる時」のことです。
さて、ユダヤ教の大事な祭りの最中に、ユダヤ教の指導者である祭司長達やファリサイ派の人々は、多くの人達からメシア、救い主ではないかという期待が大きくなって来た主イエスの存在に、不安を覚えて、神を冒涜した罪とか、人々を惑わし煽動した罪等にして捕らえようと、下役達を遣わしました。しかし、下役達も主イエスを捕らえることができずに、指導者達のところへ戻って来ました。それを見て指導者達は下役達に、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と問いただしました。すると下役達は、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えました。下役達もまた、主イエスの言葉に驚き、感動をし、主イエスは「あの預言者」や「メシア」救い主ではないのか、との思いを持ったのでした。いずれにしても、下役達が捕らえられなかった理由は、先程も触れましたが、「イエスの時」である「主イエスが十字架につけられる時」が来ていなかったからに他なりません。「イエスの時」が来ていないということは、主イエスの十字架での死が、主イエスに偏見を持ち、差別をし、捕えて殺そうとする祭司長達やファリサイ派の人々の思い、企てによって起こるのではなく、神のみ心、ご意思、ご計画によって起こるということを示していることなのです。
ユダヤ教の指導者達は下役の捕らえなかった理由を聞いて、「お前達までも惑われたのか」と憤りました。そして、「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」と罵りました。議員やファリサイ派の人々とは、イスラエルの政治や宗教の指導者達です。国のことも神の教えである律法のことも、十分に分かっていると思われていた人々です。指導者達自身もそのことに自信と誇りを持っていました。その自信と誇りが、主イエスの言葉に驚き、感動している下役達や多くの人達を、「呪われている」と、偏見と差別によるヘイトスピーチを引き起こしてしまったのです。
それにしても、下役達の「今まで、あの人のように話した人はいません」という言葉から、下役達や多くの人々が、今まで祭司長やファリサイ派の人々から、多くの神の教えを聞いて来たはずなのに、驚きもなく感動もしなかったということが分かります。指導者達を通して語られる教えが、自分を生かし、救いを与える言葉となっていなかったということでもあります。
ところで指導者達は、「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか」と、主イエスのことを「あの男」と蔑むような言い方をしています。その理由は、主イエスが、指導者達が偏見を持ち差別をしていたガリラヤのナザレ出身であるだけでなく、実の父親が誰かも分からない汚れた子として生まれ、育ての父親の職業も人々が敬遠するような仕事で、主イエス自身学問をしたことがない等という身辺調査が、指導者達によって行われていたからだろうと思います。それゆえに血筋が悪く、財産がなく、学問を身に付けていない「あの男」イエスを、血筋が良く、財産があり、学問を身に付けている指導者である自分達が、信じるはずがない、という理由、根拠になっていたはずです。このことは、まさに指導者達の主イエスへの偏見と差別に他なりません。
祭司長やファリサイ派の人々が、主イエスを連れて来なかった下役達を叱り飛ばしているときに、ファリサイ派のニコデモという人物が口を挟んで、「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と発言をしました。つまり主イエス本人から事情聴取をしないで、「あなたは人を惑わしている」と断罪することは、律法に違反することであるとの指摘でした。確かに旧約聖書申命記19章15節には、「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証言によって、その事は立証されねばならない。」と、正しい裁判による判決について書かれています。律法をしっかり守るよう人々に求めていた祭司長やファリサイ派の人々が、自らが律法に違反することを行おうとしていました。
この律法について指摘したニコデモですが、今日の個所の前、3章にも登場した人物です。ニコデモはファリサイ派に属し、また議員でもありました。そのニコデモは、ある夜に、つまり人目を避けて主イエスのもとを訪ねて、「あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです」と告白をしていたのです。しかし、このことを同じファリサイ派の人々に知られたら裏切り者とされるので、そのことを隠していました。そのニコデモが勇気を絞って、神の前に公平で公正な裁判をしなければならない、と指摘したのです。ニコデモに聖霊が働いたのだと信じますし、神が「イエスの時」のために、ニコデモを用いられたのだと思います。
ところが折角、指導者達の律法違反を未然に防ぐためでもあった、ニコデモの発言を聞いた他の指導者達は、「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤから預言者の出ないことが分かる」と、正しい裁判による判決は問題ではなく、主イエスが自分達にとって、そしてイスラエルにとって、如何に危険人物であるかが問題なのだ、とニコデモに反発し、こともあろうにニコデモに、あなたもガリラヤ出身ではないのか、と言いがかりをつけたのです。
指導者達はニコデモに、「よく調べなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」と指摘していますが、旧約聖書イザヤ書8章の最後には、「異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」とあり、9章5節には、「一人のみどりごが私達のために生まれた。一人の男の子が私達に与えられた」と、救い主の誕生が預言されているのです。聖書をよく調べなければならなかったのは、実は祭司長達やファリサイ派の人々の方だったのです。
イスラエルの政治や宗教の指導者であった祭司長達やファリサイ派の人々にとって、主イエスの存在は、自分達の立場、存在を危うくする厄介者だったと思います。その主イエスを貶める口実は何でも良かったのです。それが主イエスへの偏見と差別となったのです。しかし、主イエスは生まれながらにして偏見と差別を受けて、この世を歩まれた方です。だからこそ、この世で偏見と差別を受けて歩む人の痛みが良く分かり、重荷を負って下さるのです。このような主イエスがメシア、救い主であることが、「イエスの時」である「イエスの十字架の死」によって明らかにされました。そして、それは主イエスが偏見と差別を受けている人達だけでなく、様々な原因、理由、思いによって、偏見や差別をしてしまっている人達さえも、引き受けられる方であることが明らかにされたことでもありました。
今もこれから後も、主イエスは、この世で偏見や差別を受ける人々の痛みを負って下さり、偏見や差別をしてしまう人々の罪をイエスの十字架の死によって贖って下さる方です。そして、一人ひとりに生きた水をお与えになり、聖霊を注いで下さるのです。
(祈祷)
主なる神様、あなたのみ名を崇め讃美いたします。
今日の主日も、一人ひとりがあなたから名を呼ばわれ、四谷新生教会の礼拝堂また各家庭で主日礼拝が守られたことを、喜び感謝いたします。私達は日々の生活の中で、この時季新型コロナウイルス感染と熱中症の予防をしながら過ごしておりますが、あなたが心と体の健康をお守り下さい。
四谷新生教会の教会員や関係者、付属四谷新生幼稚園の園児やその家族、教職員一人ひとりが、人生において何らかの偏見や差別を受けるときには、同じ痛みを持つ主イエスが負って下さることを想い起こさせて下さい。また、この世で他の人に偏見や差別をしてしまっている人が、十字架につけられた主イエスと出会い、自分のすべてが引き受けられていることを知り、偏見と差別に縛られずに歩めますよう導いて下さい。
これらのお祈りを主イエス・キリストのみ名を通しておささげいたします。アーメン。