2020年7月19日 四谷新生教会礼拝
読む説教 「こんな人にいてほしい」
使徒言行録27章13-32節
あるとき突然、本当の姿があらわになる。人間には、そういう場面があると思います。東日本大震災の時に、いろいろな形で――良い方向にも悪い方向にもどちらにも――それは現れました。今回の新型コロナ感染拡大によるパンデミックも、そうであるかもしれません。本当に頼りになるものと頼りにならないもの、持ちこたえるものと駄目になってしまうもの、本物とフェイク。それが如実に露わになる時というのがあるのです。
使徒言行録27章は、冬の海で猛烈な嵐が襲ってきて、そこで人間の姿がみえた、という話を伝えています。
使徒パウロがエルサレムでつかまってしまいました。キリスト教の宣教をしていたら、「あいつは神を冒涜している」という、でっちあげの罪で訴えられて、つかまってしまったんです。でもパウロはローマの市民権をもっていたので、ローマ皇帝に上訴するという権利がありました。パウロはその権利を行使してパレスチナからローマに護送されることになりました。パウロにとって、ローマに行くというのは、自分の罪の疑いを晴らす、という以上に重要な意味があって、ローマ帝国の中心に行って多くの人にイエス・キリストのことを証しできるという意味では、彼はつかまって良かった、チャンスを与えられた、と思っていたでしょう。
しかし、ローマに行く旅は危険でした。地中海は冬になると北風が強く吹いて、航海が危険になるのです。強風の中、苦労しながら、クレタ島の「良い港」と呼ばれるところに着いた時、パウロは、この先に行くのは危ない、と自分を護送しているローマの部隊の百人隊長に進言しました。ここで冬を越すのが安全だとパウロは言ったのですが、船長と船主は、その港にずっと留まるのを望みませんでした。百人隊長は、パウロの言ったことよりも船長や船主のほうを信用して、「先の港までいこう」といいました。(日本でも、経済的利益を優先する人が「問題ない。安全だ」というと、そっちに流れるということを度々繰り返しているのを思い起こします。)
パウロの言った通りでした。船は冬の北風に吹き流され、「ついに助かる望みは全く消えうせようとして」いました。使徒言行録の著者ルカを含め、だれもが「ああ、もうだめだ」と思いました。だけど、一人、違う人がいました。パウロです。彼はあきらめていませんでした。彼は周りの者たちに「元気を出しなさい」と語って励まします。
パニック状態になっている人たちを説得するのは難しいことですが、パウロはあきらめないで、繰り返し励まします。「大丈夫だ。積荷は失うだろうが、全員の命は助かる。元気をだそう」。しかも、ただ「元気を出せ」と言ってただけではなく、現実をよく見て、具体的な対処もしっかりしていました。
14日たった頃に、船員たちが、海の底が次第に浅くなっていて、陸地に近づいているということがわかりました。その時、自分たちだけ助かろうと、錨をおろす振りをしながらこっそり小船をおろして、それで船員たちだけ逃げ出そうとしていたのです。ひどい話です。パウロはそれに素早く気づいて、百人隊長に「あの船員たちを逃がしたら皆助からなくなる」と伝え、危機を逃れました。また、その後も、皆が不安のあまり食事をまったくとれていないのを見て、「何か食べてください。生き延びるために必要だからです」と言い、自ら進んで食べてみせました。パンをとって感謝して、それをさいて―――イエス様のあの晩餐と同じように!――――パンをほおばりました。すると皆も食欲を取り戻し、食べたら安心したのです。
非常に的確です。落ち着いているのです。そのお蔭でみんな元気になって、希望をつなぎました。そして遂に、ある島に上陸できたのです。パウロが「荷物は失うが皆の命は助かる」と言った通りになりました。
どうしてパウロは、他の人たちがもうみんなあきらめてしまうような絶望的な状況の中で、なお希望を失わず、あれだけ冷静沈着に振る舞い得たのでしょう。これはとても重要な点です。だって、あの船にパウロがいなかったら、全員難破して終わりだった可能性が極めて高いのですから。
私が考える理由はこれです。パウロには「大丈夫だ」と心から思える根拠があったのです。パウロは「神からの天使の語りかけ」、つまり神さまからのメッセージを聞いていたのです。「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ」(24節)。
暴風雨の中でさすがのパウロも恐れたのでしょう。(だから天使が「恐れるな」と言いました。)しかしパウロには、イエス様が「行きなさい。あなたを遣わす」と言ってくださったことばに従ってここまで来たのだ、という自覚があります。主が「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」(23:11)と言われたのです。だからここまでやってきたのです。そして今、天使が再び「あなたはローマまで行かねばならない」と再確認してくれました。こういう時の「しなければならない」というギリシア語は神的必然といって、神の定めによって必然的にそうなるということです。だから、「神がわたしに使命を与えたのなら、それを果たせるよう途を開いてくださるにきまっている」という確信が彼を内側からささえたのです。
おびえてしまって思考停止になった人たちと、パウロとでは、何が違ったのか。パウロにとっては、「生きている」ということが、ただ偶然生まれてきて偶然生きのびているということでなく、「使命があって生かされている」ということだったのです。
使命という漢字を眺めていて、言葉遊びではありますが、ああこれは「使え、命を!」ということなんだ、と思いました。神から「大事なことに使いなさい」といわれて命を託されて、それで生きている。生きてるってことは、ミッションがそこにあるということなのです。そう自分の人生や命をとらえている人は肝が据わっています。
皆さん、嵐の日に船に乗っていたらどうですか。その船にこういう人が乗ってくれていたら頼りになりますね。反対に、自分のことだけ考えて、私利私欲で行動する人ばっかり乗っていたらどうでしょう。仲たがいがはじまってバラバラ・・・ とても嵐を乗り越えられないです。
あの逃げ出そうとした船員たちはどうだったか!船員には船と乗客を守るというミッションがあるはずです。しかし彼らは授けられた使命に生きていませんでした。そのように、嵐の時こそ、人間の真価があらわれるのです。普段威張っていたり、格好いいこと言っていた人が、本当に勝手な、情けない、醜い姿をさらうということが起こります。ミッションに生きる人が同船者を励まし、困難を乗り越えるためのリーダーシップを発揮するのに対し、自分のことばかり考えている人は、同船者の命さえも危険にさらす―――実に大きな違いがここにあります。
わたしたちも船に乗ります。この地球、この国、この教会、この家庭、この会社・学校。あなたは元気に皆を勇気づけ、また冷静沈着に必要なことができる人であるのか。それとも、「もうだめだ」とわめいて皆をさらに不安に陥れたり、隙を見て逃げ出そうとするような人になってしまうのか。これはあなただけではなく、周りの人にとって決定的な違いになるのです。
使命に生きましょう。「使え、命を」です。パウロのような特別な偉人だけが使命を与えられている、とは思いません。わたしたちもまた、神様に造られた大切な人間です。スペシャルメイドです。たまたま生まれてしまった、というのではありません。神様が、使命付きでこの時代、この場所、この状況を渡る船に乗り込ませたのです。
神様は、「ああいけない、この人には役割をつくりわすれた」なんてことはありません。「私には何もない」と言い張る人もいるかもしれませんが、そう思っているだけで実際にはあるのだと私は思います。それに、自分の得意なことだけが使命とは限りません。思わぬ問題に巻き込まれるという経験とか、回り道を強いられて嫌になった、なんてことのうちに実は使命があったということもよくあるのです。
神様が生かしてくださっている。この難事の中にも、何か自分に与えられた使命がある。そう確信している人は、みんなにとって「こんな人にいてほしい」という人です。
<祈り>
わたしたちを呼び出し、救い、使命を与えてこの世界へと送り出してくださる主イエス・キリストよ、今、わたしがなすべきことを教えてください。アーメン。