ヨハネによる福音書4:1-15
4月7日に、政府が新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、緊急事態宣言を発出したこともあり、私なりに少しでも感染のリスクを低くしようと、それまでは出勤に10分程バスを利用していたのを止めて、自宅から職場の幼稚園まで片道40分程を、雨の日を除いて歩くようにしております。普段は出勤に10分程しか歩かず、職場でもデスクワークが中心のため、かなり運動不足となっていた体には、とても良い習慣となりました。しかし、気温や湿度が高い日が多くなって来た今日この頃では、職場に着くころには汗がけっこう出てしまいます。そのような時にタオルで汗を拭き、その後にコップ一杯の水やお茶を飲みますが、私の渇いた喉を潤してくれる一杯の水やお茶の美味しさは、格段のものです。「人は水によっても生かされているのだ」と感じさせられています。
さて、喉の渇きを覚えるということでは、今日の聖書でのイエス様もそうであったようです。当時イエス様はすでに洗礼者ヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けているという話が、ユダヤ教のファリサイ派の人々の耳に入りました。実際洗礼を授けていたのは弟子達だったようですが、イエス様はエルサレムのあるユダヤの地を離れ、出身地であるガリラヤの地へと向かいました。当時のユダヤの指導者・権力者であったファリサイ派の人々は、イエス様を民衆を惑わす反社会的活動家と見て危険視していましたので、イエス様であれ弟子達であれ、洗礼を授け弟子を増やしていることを、「イエスの勢力拡大」と捉え、イエス様を捕えようと動いたのだと思います。身の危険を感じたイエス様は、弟子達と共にユダヤ人は通常通らないサマリアの地を経由して、ガリラヤの地へと逃れたのです。
イエス様と弟子達がサマリアのシカルという町にやって来ました。そこにはヤコブの井戸がありました。イエス様は旅に疲れて井戸のそばに一人座っていました。弟子達は食べ物を買いに町の中心街へ行っていました。シカルという町は、旧約聖書に出てくるシケムのことです。アブラハムが初めてパレスチナに来た時に滞在し、またアブラハムの孫であるヤコブがシケムの土地を買い取り、祭壇を建てました。そしてヤコブは死ぬ前に、シケムを息子ヨセフに与えたのです。私はイスラエルに行ったことがありませんが、岩を切り抜いた井戸が今でも古代シケムの遺跡付近にあるようです。
イエス様が井戸のそばに座っていたのは、正午頃でした。そこにサマリアのある女性が井戸に水を汲みに来ました。当時の生活習慣では、水は朝に汲み、もし足りなくなったら夕方に汲みに行きました。昼に行かないのは、パレスチナが亜熱帯性気候で暑いので活動を休み、昼寝をするためだからでした。昼に水を汲みに来たサマリアの女性は、普通の人ではなかったようです。何か事情を抱え、人目を避けなければならない女性であったと思われますが、それは今日の聖書個所の後、16節以下に、この女性が過去に五人の夫がいて、今連れ添っているのは夫ではないと言われていることが原因と思われます。そうであれば、この女性は周りから「不道徳な女」「汚れた女」とレッテルを貼られ、仲間外れにされていたと思われます。同時に、この女性自身もわが身の汚れを知り、自ら周囲から離れて生活をしていたと考えられます。いずれにしましても、この女性にとっては辛く悲しい人生だったと言えます。
そんな女性にイエス様は、「水を飲ませて下さい」と声を掛け、お願いをしました。するとこの女性は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と驚きました。その理由は、「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」と聖書に書かれています。ここでの「交際をしない」と訳されている言葉の原文は、「器を共にしない」とも解釈されています。つまり、サマリア人が触れた器で物を食べたり飲んだりしないということです。なぜユダヤ人とサマリア人が交際をしないのか、という原因は歴史の中にあります。紀元前722年に、すでに北と南の二つの王国に分かれていたイスラエルの北王国がアッシリアに滅ぼされました。多くの人がアッシリアへ連れて行かれ、残された人々はアッシリアなどからやって来た人と結婚をし、後に自分達の神殿を建て、祭司を選び、律法を独自に解釈し、信仰を受け継いでいきました。こう言ったところに、イエス様の時代にあっても、ユダヤの地に住む、つまり南王国の流れを持つ人々から、聖書の神に忠実でないと非難され、疎まれていました。その他にも、例えば南王国が新バビロニアに滅ぼされ、その後、国の再建の要であるエルサレム神殿を建てようとした時に、サマリア人が妨害したり、ユダヤと敵対した国にサマリア人が加担し、ユダヤを攻撃しました。その報復としてユダヤ人がサマリアの神殿を焼き払ったとの記録も残されています。
このようにサマリア人とユダヤ人が仲が悪いということには、長い歴史があるようです。本を正せばサマリア人もユダヤ人も、どちらもヤコブの子孫というルーツは同じなのですが、一種骨肉の争いとも呼べる根の深い問題があり、憎しみが憎しみを生んでいたと言えます。だからこそ、サマリアの女性はイエス様から声を掛けられて驚き、警戒もしたと思います。その女性にイエス様は、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませて下さい』と言ったのがだれであるかを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」と言いました。「神の賜物」とは、直接的にここでは、人が生きていく上で必要不可欠な水のことですが、イエス様は、単に肉体的な喉の渇きを癒やすだけの水というだけでなく、その人の全存在の渇きを癒す生きた水、永遠の命の水のことを、神の賜物と言っているのです。この言葉を言われたサマリアの女性は、イエス様に向かって「主よ」と答えます。女性は自分に声を掛けた方が、特別な存在であることに気付かされたのです。しかし、この女性の目には、水を汲む道具も持ってないイエス様が、深い井戸から水を汲むことは無理だと思え、生きた水をどのように得るのですかと聞き、またサマリア人とユダヤ人の両民族にとって共通で、重要な先祖であるヤコブよりもイエス様が偉いのですかと聞きました。この女性のイエス様への問い掛けは無理のないことだと思います。大抵の人は目に見えるところで物事を理解し判断をしますので、水を汲む道具を持たないイエス様が水を汲み、与えることはあり得ないと考えます。また、サマリア人が今こうして存在しているのは、ヤコブの井戸があるからであり、ヤコブこそ偉大なる祖先であると誰もが認めるところだと思います。
イエス様が特別な存在だと気付き始めたサマリアの女性に対して、イエス様は、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と言われました。イエス様とこの女性との出会いは、イエス様が女性に水を飲ませてほしいと頼むということでしたが、二人のやり取りを通して、イエス様がサマリアの女性に水を与えるという関係に変わりました。
サマリアの女性がイエス様に与えることができる水は、目に見える水であり、いっときは喉の渇きを癒やすことができても、暫くすれば再び喉は渇いてしまいます。しかし、イエス様が与えようとする水は、目に見える水ではなく、すべての人の全存在を生かす水、命であり、聖霊が与える恵み、救いです。一言でいえば、主イエスこそ生きた水、永遠の命、聖霊、救いであるということです。イエス様はサマリアの女性に、「あなたが生きていく上で水は無くてはならないものであるけれども、人は水だけで生きるのではなく、私(主イエス)を信じ、私と共に生きることだ」と教えているのです。
私達の体は成人で55%~60%は水分です。女性は脂肪が多いので男性より水分が少ないようです。体の水は物質を溶かし、運び、老廃物を尿や便として排泄し、また体温調整を行うという大切な働きを担っています。摂取する水は、口から飲む飲料水や食物の中の水分(摂取される水)、体内で栄養素がエネルギーになるときに出きる水分(代謝水)に区別されます。一日の摂取量は活動によっても異なりますが、2.3ℓ~3.5ℓ程度と言われます。和食には水分が多く含まれているようです。人が生きていく上で必要不可欠な水ですが、水を2~3日、一滴も飲めないと生命維持は難しいとのことです。ちなみに食べ物がなく水だけだと、1ヵ月近く生きることができるようです。ある研究機関に因りますと、水を飲むと脳が活性化するという実験結果が出たそうです。頭を使う作業の前に0.5ℓの水を飲んだところ、大人も子どもも効率がアップし、集中力や記憶力も向上したということです。随分前から朝起きたら健康のために、コップ一杯の水を飲むことを勧められていますが、科学の進歩で、水が与える様々な効果が解明されてきているようです。
イエス様は人が生きていく上で水が不可欠であることを踏まえつつも、人は水だけで生きるのではなく、主イエスが与えて下さる、決して喉が渇くことのない水を飲むことで、永遠の命に至らせられるのだと教えます。この言葉を聞いたサマリアの女性は、「主よ、渇くことのないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水を下さい。」とイエス様に心から願いました。この時点でも、この女性はやはりこの世的な水だと受け止めています。確かにこの女性にとって、毎日人目を避けて誰も汲みに来ない暑い真昼に、水を汲みに来なくてもよくなることは、肉体的にも精神的にも重荷から解放されることになったことでしょう。
主イエスが与えて下さる、決して喉が渇くことのない水とは、はっきり言うならば、主イエスご自身のことなのです。主イエスが、このサマリアの女性の全存在を内側からつくりかえて下さり、この世にあって神と人の前に、主イエスと共にあり続けて、主イエスが永遠の命に至らせて下さると言うのです。そして、この女性の内から主イエスが与えて下さる水、主イエスの愛が豊かにわき出るというのです。サマリアの女性は、サマリア人社会にあって、人間関係を他者から断ち切られ、自らも断ち切り、汚れた者としてひっそりと生きていました。その女性に主イエスは声を掛け、関係をつくって下さったのです。また、その女性を必要としたのです。主イエスとの出会いを通して、サマリアの女性は汚れを清められ、立ち直る機会を与えられたのです。主イエスが与えられようとした水は、この女性を社会的にも信仰的にも、回復させてくれるまぎれもない現実の神の恵み、救いなのです。この現実の神の恵み、救いは、今を生かされている私達一人ひとりにも、主イエスは与えて下さっているのです。
祈祷
聖なる神様、あなたのみ名を崇め讃美いたします。
本日の主日礼拝も、あなたが備えて下さり、四谷新生教会の礼拝堂をはじめ教会員の方々の自宅などで守ることができました。心より感謝をいたします。
新型コロナウイルス感染は終息をしておりませんが、東京や神奈川でも少しずつ日常生活を取り戻しております。引き続き感染予防に努めなければなりませんが、主イエスと共にある日々の生活をお守り下さい。
四谷新生教会の方々や四谷新生幼稚園の園児や保護者、教職員が、主イエスから声を掛けられ、主イエスが必要とされている存在であることを神様の恵み、神様の救いとして喜び、感謝して、与えられている賜物を、豊かに用いていくことができますよう信仰を養って下さい。
これらのお祈りを、主イエス・キリストのみ名を通して、おささげいたします。アーメン。