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2020
13Jun

「主の共同体」 野田沢牧師

  • 今月の説教

使徒言行録2:43-47

前回、私はペンテコステの日に皆さんとともに聖書のみ言葉を分かち合いました。聖霊に満たされ導かれたペトロが民衆にイエス・キリストの解き明かしの説教をし、それを聞いた民衆は自らの罪を自覚します。そして「どうすればいいのか?」と弟子たちに問います。そして「悔い改め、イエスをキリストであると認め信じ、洗礼を受けなさい」と勧め、その日のうちに3000人が導かれた。主の聖霊を受けた弟子たちが、人類史上最初の教会を建てます。厳密に言うと、教会という建物はなくとも、聖霊に導かれ強められ、イエス・キリストと父なる神を主と仰ぐ、キリスト者の群れが与えられたことを覚えました。

本日はその教会というものの「最初の姿」から、「教会のオリジナルの姿」「教会が大切にしている事」を見てゆきたいと思います。

今、私たちはその教会に集うことができていません。そのような今だからこそ、教会の豊かさを再確認したい。そして礼拝の場としての教会の豊かさとともに、「共同体としての教会の豊かさ」をこそ、皆さんと分かち合いたいと願っています。

約2000年前のペトロの説教によって、罪や弱さすら恵みとなりえる教会が、教会共同体が誕生しました。

そんな2000年前の教会の人たちの具体的な姿が、43節以下に記されています。その中でも44-45節に注目したい。

「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」

「すべての物を共有にしていた」というこの言葉を読んだとき、我々は思います。持ち物・財産、そのすべてを捧げ、分け合っていたのかと。それはそれで美しいかもしれませんが、ここでの「すべての物」の「すべて」とは、量の話ではありません。「どのようなものを分かち合っていたのか?」という、質の話です。皆が、持っているものをすべて分かち合ったのです。

ある人はお金。ある人は食べ物。ある人は着物。ある人は一宿一飯を。ある人は…と。少しでも何かを人に分けられるだけ持っていたならば、持っていない人のために(量的すべてではなく)その一部を分かち合った。と。

寮ではなく、質。「どのような物も、すべて分かち合う」ということ。

そのような意味で「すべての物を共有にし」という言葉を読んでみますと、本当の意味で教会が、教会の共同体が大切にしてきたことが顕わにされてきます。…聖書のいう、教会でいう「すべての物」とは、金品や財産、食料などだけをいうのではありません。確かにそれらも一部分かち合いました。

しかし、聖書のいう「すべての物を共有にする」とは、「よいものばかりを分かち合うのではない」ということ。それは、弱さや痛み、悲しみや苦しみ、困難や生きづらさ、人の持つ「想いも含めたその全ての共有」をいいます。これこそが教会の豊かさなのだと。

私たち教会は、病者、葬儀、洗礼、その時々に、共にそれぞれに喜び、悲しみ、そしてその為に熱心に祈る。これが教会の豊かさ。教会外の出来事にも、心砕き熱心に祈る。これが教会の豊かさ。教会共同体の豊かさ。

持っている人だけが何かを分かち合うのではなく、この世的にはなにも持たなくとも、その痛みや苦しみを教会で分かち合う。そしてそれが祈りとなり、それぞれの信仰と教会が強くされる。

主の建てたもう教会という宮は、主がお招きくださった私たちキリスト者の共同体は、痛みも弱さも不安もその全てを分かち合う、そのような所であり、存在であるのだと伝えています。

他者の痛みも悩みも不自由さも、みんなで共有する。持たない人がなにも持たないのではなく、弱い人がただ弱いのではなく、その出来事や苦しさや不自由さを、分かち合あい祈りあう。他者のそのような歩みと痛みを共有することを通して、その中に豊かさを見いだしてゆく。ともに分かち合い、主に委ね、絶望の中に希望を見してゆくのが、信仰者の群れ。教会です。

教会は2000年間、このような他者と社会と、すべてをともに分かち合うということを大切にしてきました。それは、勇気のいることですし痛みを伴うことです。また、この世的には評価されないことが多くあります。しかし、教会はそれを大切にしてきました。それはなぜか?

…イエス・キリストという方が、そういうお方だったからです。

私たちもそうありたいと願います。それを可能にするのが、信仰であり教会生活なのでしょう。私たち一人一人は弱い者ですが、イエス・キリストとその愛を知り、神の御前で謙虚にされつつ、「痛みをともに分かち合う、愛の群れ」でありたいと思います。

私たちの教会は今、無僕であり、そしてコロナ禍にあって集うことすらままならない不安の中にあります。しかし私たちは知っています。この世の痛みや苦難も、信仰の眼差しとその共同体の祈りによって、必ず希望が与えられるということを。この聖書から。世々の教会は、「苦難を通しての希望」を大切にしてきたから、様々な迫害をも乗り越えてこられた。

無僕と、教会に集うことのできないという試練の中にある今こそ、今まで以上に「祈り合い・つながり合う」、希望につながる時なのであろうと信じます。

不安や寂しさすらも分かち合い祈り合う中で、主に在る希望が与えられる。

…幾たびの迫害をも乗り越えてきた、この主の約束。この四谷新生教会も、そこにつながる私たち共同体も、その主の約束と希望の中を歩んでいることを改めて確認し、心からの感謝を持ってともに主に祈りたいと思います。

 

【祈り】

ご在天の父なる御神。あなたの御名を賛美いたします。

聖なる日、教会員別々の所ではあっても、同じ主を賛美し、同じ御言葉に慰めと希望とを与えられ心から感謝をいたします。

あなたに招かれ、あなたにつながったこの四谷新生教会、そしてその共同体とをどうぞ豊かに愛し、慈しみの雨を降らせてください。そしてこの群れに、強き聖霊の導きをお与えください。

離れている信徒一人ひとりをお守りくださいますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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