聖 書: エフェソの信徒への手紙1章3-14節
今日は、教会の暦では三位一体主日といいます。聖霊降臨日の次の日曜が、こう呼ばれます。長い時間かかってできた教会暦の歴史をみると、かなり後から加わった日です。イースターやペンテコステのように聖書に記されている出来事がもとになっているというのではなく、キリスト教の基本的教理に基づく教育的な意味合いが強い日かと思います。この日には、「三つにいましてひとりなる」神さまをたたえたいと思い、賛美歌に351「聖なる聖なる」や352「来たれ全能の主」を選びました。まだみんなで礼拝堂に集合して歌うことはできませんが、こういう時に力を発揮するのがクリスチャンの逞しい想像力です。愛する他の姉妹兄弟がたの歌っている姿や声を想像しながら、(小さい声でもよいので)歌いましょう。
さて、「三位一体」というと多くの人が思うのは、「難しくてよくわからない」ということではないでしょうか。「三にして一」、「一にして三」。何か、だまされたような気になります。
数年前に『そうか!なるほど!!キリスト教』という本の出版に関わって、その本の設問と回答者の選定をしたのですが、やはり三位一体は外せません。この難しい質問の回答者には、カトリックの代表的な組織神学者、上智諾の岩島忠彦神父をお願いしました。
「三位一体の説明を聞いたものの、よくわかりません。どうすればよいでしょう」という質問に答えて、岩島神父は、自分の画家であったお兄さんが、「三位一体なんて人間が思いつく考えではないから」といって洗礼を受けた、それは人間の理解を越えた神秘なんだ、と書いておられます。
聖書に三位一体という言葉は出てきません。この言葉は、後になって、方やユダヤ教の一神教と、方やグノーシス主義などの多神教という両側と対峙して、一方では「神は父・子・聖霊である」と言い、もう一方では「神はお一人である」と言いました。その中で、「イエス・キリストが神である」こと、そして次に「聖霊が神である」ことを教義として確立しました。そして381年の第一コンスタンティノポリス公会議で、「神は一つの実体、三つのペルソナ(位格)」であると教義として公に認めるに至ったのです。
岩島神父は、「三位一体は信仰の対象というよりも、信仰のあり方を示している」のだとおっしゃいます。「あり方」というのは、「現実の姿」と言い換えてもいいかもしれません。三位一体という言葉がわからなくても、自分たちの信仰をみたら、そうなっているんだ。わたしたちは神の子キリストを信じて、キリストを通して、天の父に向かう。その際、「信じる」ことは、わたしのうちに働いてくださる聖霊によって可能とされている。だから父・子・聖霊というのは言い換えれば、「見えざる神・見える神・感じる神」ということなのだ。つまり、わたしたちはいわば、見えざる神・見える神・感じる神の三位に包まれるようにして信仰しているのだ、というのです。
この本を読んで頂いても、なお、やっぱり三位一体はよくわからないなあと言われるかもしれません。(実際、言われました。)それはまあ、神様の奥深さがわれわれの理解を越えているのですから仕方がないことです。でも、一つ覚えておいて頂きたいのは、三位一体なんて教理とわたしは関係ないよ、ということではなくて、現実として、三位一体に包まれているからこのわたしの「信じる」ということが起こっている、ということです。そういう意味で、三位一体は神秘なのです。
今日わたしたちに与えられている聖書箇所は、エフェソ書1章3-14節ですが、この個所を読むだけでも、わたしたちが、父と子と聖霊によって包まれていて、父と子と聖霊である神をたたえている、ということがよくわかります。
実は、3-14節というのはかなり長いですが、ギリシア語では一つのセンテンスなのです。
「ほめたたえよ、神を・・・この神はわたしたちをキリストにおいて・・・・ この神はわたしたちを愛して・・・・この神はキリストにおいてわたしたちを選んでくださった・・・・」と、後から後から、最初の部分にある神、キリストを修飾し、説明していく長大な文です。冒頭で「ほめたたえよ!」と言って、あとは全部「なぜほめたたえられるべきなのか」の理由を、神、キリストを関係代名詞で受けていく形で解き明かしています。日本語ではずっと続けては訳せないので、いくつものセンテンスに分けてあります。
これは賛美歌なのだ、と解説する聖書学者がいます。きっとそうだろうな、と思います。旋律にのせて歌うことで、教会の人たちはこれを覚えたのでしょう。もし旋律をつけるとすれば、喜び溢れる長調だろうなと想像します。ことばの中身が、全体にわたって喜びに溢れているからです。
なぜこんなにも喜びに溢れているのでしょうか?三つの理由を見出すことができます。
第一に、「キリストにおいて」、「キリストによって」というはっきりとした根拠を持っているから。キリストという場をもっているから。キリストが来てくださって、わたしたちは「その血によって贖われ、罪を赦されました」。これより大いなる「神の豊かな恵み」はありません。
第二に、「神が選んでくださった」、「前から定めてくださった」という一方的な恵みに支えられているから。4節「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」。5節「イエス・キリストによって神の子としようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」さらに11節「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」自分が何かしたから救われた、というのではなく、「神が自分をとらえてくださった」という神の行為が先行しているのです。
第三に、「約束された聖霊で証印を押された」(13節)ということ。聖霊を与えられているから、ということです。「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証」(14節)です。わたしたちは罪の奴隷でしたが、買い戻され、神の国の継承者とされました。その保証となるのは、今、聖霊を注がれているということです。わたしたちは聖霊を受けているから神を信じ、たたえています。聖霊を受けているからキリストの言葉を聴き、それに従うことができます。聖霊を受けているから、自分の心の狭さを越えて人を愛することができます。
この三つのことを通して見えてくるのは、「神様の計画はとてつもなく大きい」ということと、「私たちはちっぽけだ」ということです。二つが合わされるとすごい驚きになります。神様は大きな素晴らしい計画の中に、小さな私たちを置いてくださっているということです。
9節に出てくる「秘められた計画」は、直訳すれば、神の意志の奥義となります。奥義はミュステリオン。英語でいえばミステリーです。神様が抱いておられる計画は大いなるミステリーなのです。神秘なのです。「我々はこのように優れていたから」というなら合理的な理由に基づくのであって、神秘ではありません。でも神の計画は、人間の合理的正当性の主張ではとても成り立たないものです。人の思いを超えたものです。そんなすごい神の計画の中を私たちは生きている。わたしたちは自分たちの教会を、大波に弄ばれる小舟のように感じているけれど、そして実際そうだけれど、しかしこの小舟は、大きな計画の中で果たすべき役割を与えられているのです。神の決断と行為に基礎を置く時、「わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」(14節)。
新型コロナウィルスの感染はいつになったら止まるのでしょう。米国の激しい人種差別はいつになったら根絶されるのでしょう。ブラック・ライブズ・マター(黒人の生は尊い)が現実のものとなるのでしょう。暴力的に抑えつけられている香港の友たちの自由への叫びはいつになったら聞かれるのでしょう。
人間の人間らしい生活を引き裂く諸々の力はあまりに大きく、無力感にうちのめされてしまうことがしばしばです。そのような時、私たちは自分たちを諸悪の支配のもとに囲われているという誤ったイメージではなく、もっと確かなこと。今日の聖書箇所が生き生きと描き出している私たちの姿。すなわち、神の恵みの選びのもとに置かれ、どんな中でも希望を抱き、父・子・聖霊の神の栄光をたたえ歌っている姿。そのイメージを脳裏に浮かべていましょう。実際問題、私たちは父・子・聖霊に包まれているのですから。
祈りましょう。
見えざる神、見える神、感じる神よ。
三つにいまして一つなるあなたの栄光をたたえます。
あなたは、すべての命に、その命にふさわしい尊厳を与えてくださっています。
今、新型コロナウィルスの猛威により、またそれによって引き起こされた不安ゆえの人間の争いのゆえに、いろいろな仕方で尊厳が損なわれています。
神の恵みによって救いへと選ばれた私たちが、その恵みにふさわしく生き、神のみこころにかなった生き方ができますように。いのちの尊厳を守る者として生きることができますように。
父・子・聖霊がわたしたちを包み、守ってくださいますように。
アーメン