ヨハネ16:25-33 5月17日
私たちは今日復活節の第6主日を迎えています。教会の暦に従えば、今週の木曜日がイエスが天に挙げられる昇天日です。そして次の主日を昇天の主日として守った後に、イエスがもはや共に歩むことがなくなった教会に、その先の歩みを歩み通す支えとして聖霊が送られる聖霊降臨の日を迎えることになります。主の昇天が教会に連なるわたしたちにどのような意味を持っているかと言えば、それは主が天に挙げられる栄光の日であると同時に、地上を歩むものにとって愛するものとの別れを意味するものでもあります。それは場合によってはその先の人生を生き抜くのに決定的な困難ともなるような経験です。
今までの人生を壊されるような経験をしてなお、地上で与えられたいのちを生き抜き、与えられたつとめを果たすために、何が必要なのか、そのことを教会の暦のこの時期はわたしたちに教えてくれます。
ヨハネによる福音書のイエスは、しばしば周囲にいるものたちとの間に避けがたい断絶を見ています。イエスに初めて出会う人、イエスの教えに魅力を感じてたずねてきた人、イエスに敵対する人、ヨハネによる福音書の中でイエスと出会う人びとと、イエスとの会話は、いつでもどこかずれています。そこにはいつも何か断絶があるのです。それは、イエスの活動の初めからイエスと行動を共にしていた弟子たちとの間でも同じです。長い時間を共に過ごしていても、今と言うときに親しく語り合っていても、実は本当の意味でイエスのことを弟子たちは理解してはいないのです。
イエスの語ることの意味が、イエスに従う者たちにとって明らかになるとき、それは聖書の言葉で言えば、「その日」です。それは、今日や、今ではない、「その日」や「その時」といわれる、未来のことです。「その日」がくるまでは、イエスが語ること、イエスが為すことの本当の意味は弟子たちには正しく理解されないし、またその意味ではイエスが見ている世界を弟子たちがともに仰ぎ見ることもないのです。
その断絶において、それでもイエスは弟子たちに語ります。
今日イエスが弟子たちに対して語るのは、イエスが最終的に指し示すものについてです。それをイエスは「もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」と言い表しています。人間の間で、神について教え、自分について語り、病を癒し、人を阻害する組織と対決してきたイエスは、その生涯の活動すべてをかけて、ただ一つのことを指し示してきました。それは、神の愛がどのようなものであるか、神の支配とはどのようなものであるかということです。神の愛はおそらく人間が知っている愛に似ているかもしれないものです。イエスは愛の行いによってそれを示し、また語りました。けれどもその深さや広さは人間には想像もつかないものです。神の支配、神とともに生きるということについて、イエスは語りました。人間が経験する痛みや飢えや不正義は、神のもとでは存在しない、と。
こうして、イエスが語るもの、イエスが示すものは、それがどのような性質のものであるのか、語られることを聞いていて想像していても、実感を持って受け取られることがありません。なぜなら、聞くわたしたちの間では、わたしたちの知る愛は限界があるし、わたしたちの間では、未来永劫に、不正義や、暴力や排除や不寛容が、力をふるっているように思えるからです。イエスの語るものの本質を、わたしたちは理解することがありません。
だから神の支配に生きることについても、ただ語られているだけのもので、それが実現するとは思えないもののように思うのです。
イエスは「もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる」と語ります。 折に触れイエスは、自分は父なる神のもとからきたものであるということ、そして人間の間でイエスが語り行動してきたことは、神の支配とはどういうものであるかを知らせるためのものであったということを告げてきました。けれどもそれは直接的な表現を用いてなされるものではなかった、というのです。それは、わかる人だけ、わかるときにわかる、そのような仕方で語られました。そして、結果としてほとんどの人がわからない、そのようなものでもありました。
それをイエスは、こののちは譬えを用いずに語るのだといい、それを聞いた弟子たちは即座に「わかる」「わかった」と確信します。イエスが誰であるのか、これでわかった。イエスが神のもとから来たと信じるというのです。しかし物語の中ではこの出来事のすぐ後、イエスは逮捕されてしまいます。そして弟子たちは大祭司の手下に捕縛されるイエスを見捨てて逃げ去ってしまうのです。その意味では弟子たちにおける「わかる」は弟子たちの考えていたような「わかる」ではありませんでした。
イエスが神のもとから来たということも、イエスが語る神に支配を信じることも、弟子たちの認識とはなお、どこまでいっても断絶があります。「今信じている」「今わかった」ことはもしかすると、「信じている」のでも「わかっている」のでもないのかもしれません。
神の支配を知ること、神と共に生きることを知ることには人間の現実世界との断絶が存在します。自分の意思が優先されるところ、自分の価値ではかられるところには、神の支配を知ること、神と共に生きることは生じないのです。
イエスは弟子たちにその断絶を知りつつ、語りかけています。これらすべてのことは、弟子たちに平和を与えるために語ったのだといいます。イエスは弟子たちにとって今はまだ「その時」ではないと知っていました。イエスの語ったこと、なしたことの意味を知るようになるのは、今というときではないことをイエスは知っていました。
弟子たちが本当の意味でイエスの語ったこと、なしたことの意味を知るようになるのはこれから後のことです。弟子たちが、自らの弱さに失望するとき、また世間から迫害され弱りきるとき、その生涯における困難な時であったのです。それは自分の望むものではない困難を担わされるそのときです。自分の生の道筋を自分が望んだようには整えられないとき、人間的には最も避けたいと思うような、そのときに初めて、その困難のなかで、イエスが指し示す神の支配が圧倒的な現実として目の前に立ち現われてくる、そのようなものです。神が人を愛するとは、人にとってどういうことなのか、人はそのときに知ることになるのです。
わたしたちもまた、今、本当に今まで遭遇したことのない困難に見舞われています。社会的隔離の中で、どのように共同体を創ってゆくのか。わたしたち日本の教会に連なる者は、改めて、自分の信じてきた教会や、礼拝が、さらにはキリスト教がどのようなものであるのかを問われているのです。「わかった」「信じている」と思っているものが何なのか、それを問われています。
けれども、そうして自分の望むのではない困難とともに歩まざるを得なくなった「その時」に初めてわたしたちは神の支配を知り、そこに生きようとしています。この数ヶ月、わたしたちは隔ての中で、それを乗り越えるものを模索することで「愛する」とはどういうことなのか、否応なく学ばされました。「わかった」つもりのものがまだわからないままにただ、ひたすら愛することを学んできました。イエスは、私たちの生涯の「その時」のために希望の言葉を残してくれています。「わたしはすでに世に勝っている」。この「世」にあって、なおイエスの伝える愛を生きるためのわたしたちの模索は、わからないままに「世に勝っている」この言葉を信じ、神の支配を共に求める共同体を創っていきたいと思います。
いのちの造り主である神さま
わたしたちは世にある間、あなたの真実を理解することはないのかもしれません。けれども苦闘するわたしたちの日々のどこかにあなたが働いていてくださること、導いていてくださることをわたしたちは信じています。あなたの真実は、わたしたちの現実を超えてこの世にあって勝利している、というその約束に感謝してわたしたちの歩みをあなたにお委ねします。愛するイエス・キリストのお名前によっていのります。