2020年5月3日 復活節第4主日 ヨハネ福音書21:15-25
5月3日にはようやく四谷新生教会の皆さまと、顔と顔を合わせてお会いできると思っておりましたが、見通しが甘かったですね。辛抱の時はなお続きそうです。というわけで、ちっともイースターらしくない復活節を過ごして四回目の日曜日です。復活節の日曜にはすべて名前がついているのですが、今日は「ユビラーテ(Jubilate)」、すなわち「喜べ」という日です。いつもとはきわめて違う仕方ではありますが、それぞれのいる場所で喜びを目いっぱい表して、この礼拝をささげましょう。
シモン・ペトロは弟子たちの中でリーダーでした。良い意味でも悪い意味でも、弟子たちを代表する人でした。主に従うということにおいて一番熱い男は、やはり彼だったでしょう。しかし、「たとえ死ぬことになってもついていきます」と熱く誓っていた彼が、いざとなったらそうはいきませんでした。我が身可愛さがつい出てしまうのです。人は弱いもの。そういう意味でも、彼はわたしたちの代表です。
ヨハネ21章1~14節には、ティベリアス(ガリラヤ)湖畔で、復活されたイエス様が弟子たちの前に現れてくださったことが記されています。そこにおいても、シモン・ペトロは依然としてリーダーだったようです。漁をしている彼らに湖畔から語りかけてくる人が「主だ!」とわかった途端、先頭切って湖に飛び込み、主のもとに走り寄ったのは彼でした。ということは、彼がそのまま(これから形成される)教会の代表者、トップ、悪い言い方をすればボスとして采配をふるうことになる、ということです。
それで大丈夫なのでしょうか。何事もなかったようにリーダーとして振る舞い続けていいのでしょうか。そんな疑問に、「いや、復活されたイエス様が、過去のことを何も言わずに、弟子たちのところに来て、『平安あれ』と言ってくださったんじゃないか」、ガリラヤ湖畔でも彼らの過去を責めたりせず一緒に食事をしてくださったではないか」と言えるかもしれません。しかし、そのまま行ったら、教会は危ないことになっていたのではないでしょうか。(歴史にもしもはないけれど)もしそのままシモン・ペトロが元の鞘におさまっていたら、表面的には問題がなくても、中身というか体質において深刻な問題を抱えていくことになったのではないか、と思えるのです。
イエス様はそれをそのまま放置されはしませんでした。ペトロと一対一の会話をされるのです。それが今日の聖書箇所です。イエス様はここで、彼に本当に必要なこと、真の意味で立ち直って信仰共同体の指導者になるために必要なことを与えられました。ですから、わたしたちにとっても、教会の原点にあることとして、とても大切なことです。
「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」
これが最重要なことでした。「わたしを信じるか」ではなく、「わたしの福音を正しく説明できるか」でもない。「組織を統率していく覚悟や指導力があるか」でもない。必要なのは、主を愛しているかという一事でした。
もちろんシモンは「はい」と言います。その気持ちはあんなことがあった今でも、少しも変っていないのでした。しかし、イエス様は三度繰り返しきかれました。「あなたは私を愛するか」。日本語だと同じですが、一度目・二度目はアガパオーという動詞、三度目は(シモンの返事に使われているのと同じ)フィレオーという動詞が使われています。[神の絶対的な愛(アガペー)と、友愛(フィレオー)の違いをお聴きになったことがあると思いますが、それの動詞形です。]そのニュアンスを活かしていえば、三回目の質問は「私のことを本当に大好きかい?」というもの。それが一番大事だったのです。
シモンは、信じてもらえないのかという悲しさを覚えながらも「はい」と答えました。イエス様はそれに対して「嘘じゃないのか?」とか「ならば、なんであの時裏切った?」とか言わず、三度、「わたしの小羊/羊を養いなさい」と命じられました。
三度。シモンにその意味は明らかだったでしょう。三度も裏切ってしまった彼の傷は深いのです。そこに敢えて触れるようなこのやり取り。これを読むとイエス様ってすごいなあと思います。「いいよ、いいよ、気にするな」と軽くほこりを払うように肩をたたくのではなくて、三度「愛しているか」と問うことによって、御自分が本気で彼を愛していることをわからせて、その上で、三度羊を養うことを命じて、彼にこれからの使命を本気で託して、深いところから彼を立ち直らせたのです。
これは、わたしたち教会にとっても本質的なことです。すべては主イエスへの愛から始まらなければならないのです。「あなたはわたしを愛してくれているのか。何よりも愛してくれているのか。ならば、わたしの望んでいることをしてほしい。わたしが一匹一匹の羊を愛している、その愛のために仕えてほしい。あなたが思い描き、望んでいることではなく、わたしがしてきたこと、わたしが託することをしてほしい」。イエス様がしてきたこと、すなわち、「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
このイエス様からの委託を受けたシモン・ペトロの人生は変わります。「あなたは若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところに行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところに連れていかれる。」
シモンは、これまでは自分がしたいことを思いっきりしてきたのだと言えるかもしれません。師イエスに対して熱心でしたが、その熱心は、自分の達成したいと願う志において熱心であり、いわば自分の野心への熱心だったのです。そのためにはイエス様さえ従わせようとしていたのです。その結果が、あの挫折でした。しかし、ここからは違います。ここからは、本当にイエス様に従い、イエス様の福音のために働く歩みが始まります。自分の熱心を振りまくためでなく、主が自分を用いてくださるままに進むのです。
教会は、この世の諸々の共同体がそうであるのと同様、指導者の歪んだ、人を傷つけ痛める支配という問題をたくさん経験してきました。私は限られた例しか知りませんが、その実例や、また歴史上の諸例を見て思うことがあります。指導者の傷ついた自我、満たされない自己実現の欲求、過去において充足されなかった「愛された、認められたい」という渇望。それが支配における隠れた動機として働いていることが多いのではないだろうか。
神のため、愛のため、教会のため。そう言っている。自分でもそう思っているかもしれない。でも実際はそうではない。隠れた動機が強く働いている。指導的な人がそういう解決していない内的な問題を抱えたまま、しかもそれを自分で気づけないままでいると、教会は、外から見ていくら活発であり勢いがあったとしても、中において次第に病んでいくことになります。もし、シモン・ペトロがあのまま教会の偉い人になっていったら大変なことになっていたのではないか、と最初に言ったのはそういう意味です。
シモン・ペトロは自分の内なる挫折とその傷を主イエスに癒していただき、その上で再び使命を授けられて、自分の野心や野望によってではなくて主イエスの愛によって働く者となり、再出発します。それは、「自分で帯を締める」のから「他の人に帯を締められる」ことになる、という変化でもあります。
「帯を締める」というギリシア語は、聖書ではここ以外には1か所、使徒言行録12章8節で使われているだけです。それは、ペトロが宣教のゆえに牢屋にぶちこまれていた時の記事です。つまり、他の人が帯を締めて彼を拘留したということです。ペトロはそれを甘んじて受けたのです。ところが、牢屋にいると、「天使が『帯を締め履物を履きなさい』と言ったので、ペトロはその通りにした」というのです。面白いですね!今度は「天使」が帯をしめさせてくれたのです。そうしたら、牢屋から不思議と救い出されるという奇跡的体験をしました。つまり、悪いことも起きるし良いことも起きる。そのどちらもペトロは受け入れたのです。自分の選り好みで「行きます」とか「行きません」とかではない。それを超えたところで起こる神様の御計画の中で、ひたすらイエス様の愛に仕える歩みをしたのです。
コロナ・ウイルス感染拡大という、少し前まではまったく考えもしなかったようなことによって、わたしたちは今、予定していたこと、計画していたことがすべてご破算になってしまう、という思いを味わっています。困りました。辛いです。いらいらします。思うようにならないことだらけです。これから先も、他人に帯を締められるようなことを経験していくのでしょう。しかし、このこともイエス様の視野には入っていることでしょう。このような中でも、いや、このような中でこそ、主の教会に生きるわたしたちは、「わたしの羊を飼いなさい」という主から託されたことを果たしていきましょう。主が命をかけて愛された一人一人を愛し、守り、共に生きていましょう。その原点を忘れそうになったら、あの声を思い出しましょう。「あなたは私を大好きかい」。
祈り
主よ、あなたを愛します。あなたが大好きです。
だから、あなたの愛されたすべての人、すべてのものに、このわたしも仕えることができますように。
聖なる御名によって。アーメン。