ヨハネによる福音書21:1-14
今、日本をはじめ世界は、新型コロナウイルスという感染症の流行の影響で、家庭生活や社会生活に大きな支障が出ております。多くの人々は感染を怖れ、経済の落ち込みなどに不安を感じております。事実4月23日現在、日本における感染者は1万2千人を超え、死者は300人を超えています。世界では感染者は260万人を超え、死者は18万人を超えています。感染拡大が弱まった国もありますが、日本ではまだ収束は見通せない状況です。経済に至っては、感染が広まっていくにつれて、不要不急の外出の自粛や在宅勤務・学校の休校や幼稚園の休園などの要請も全国に広がり、4月7日に政府が緊急事態宣言を発令してからは、一段と外出自粛や営業自粛などが求められております。そのような中で、会社や商店の収益が激減し、倒産や破産をしてしまったり、従業員の給与が大きく減給されたり、従業員が雇い止めや解雇されたりもしております。
この他にも、新型コロナウイルスの流行が原因とする様々な問題が、連日新聞やテレビのニュースで伝えられております。いずれにしましても、主イエスが感染した方を癒し、感染で亡くなられた方の家族を慰めて下さるように、また医学研究者に知恵を与え、ワクチンなど治療薬を完成させ、治療にあたる医療従事者の健康と安全を守って下さるように、そして私達一人ひとりが、正しい手洗いやうがいに努めることができるよう願い、世界の人々の健康と生活を脅かす新型コロナウイルスが、1日も早く終息できるようお祈りを続けたいと思います。
私達は今回の新型コロナウイルスだけでなく、人生において、生きていく中で、自分や家族の健康のことや生活のことで不安や怖れを感じたり、苦しくつらい状況に置かれることも少なくないと思います。それは時代を超えて、本日の聖書個所に登場してくる主イエスの弟子達も同じでした。
本日の聖書個所の最後14節に、「イエスが死者の中から復活した後、弟子達に現れたのは、これでもう三度目である」と書かれております。「三度も現れた」ということを皆さんはどのように考えられますでしょうか。主イエスが復活したことを証明するならば、一度で十分だとも言えると思います。しかし、単に復活の証明ではなかったのです。本日の個所での復活の場所は、ティベリアス湖、別名はガリラヤ湖ですが、この湖の湖畔でした。他の二度の復活の場所はエルサレムでした。ここから復活の主は、主が必要とされる時に、必要な場所に現れて下さる方だということが示されます。だからこそ、時間や空間を超えて、今この瞬間にも、復活の主は、世界の必要な場所に現れて下さっているのです。
さらには、主が三度も弟子達の前に現れて下さったのは、復活の主を信じて、復活の主に従っていくことの恵み、豊かさをしっかりと示し、伝えるためでもありました。主イエスの弟子達は、自分達の師である主イエスがイスラエルの王となると信じて期待していましたので、主イエスが逮捕され、十字架で処刑されたときには、大きな悲しみと同時に落胆し、今度は自分達の身が危険だと恐れて、郷里であるガリラヤに逃げ戻り、弟子になる前までしていた漁師の仕事をしつつ、その日その日の生活を送っていたのです。
本日の聖書によれば、ある夜に主イエスの弟子であるペテロが「私は漁に行く」と他の弟子六人に声を掛けると、他の弟子達も「私達も一緒に行こう」と応えて、一緒に出掛けて舟に乗り込みました。弟子達のリーダー的存在であったペトロの呼び掛けに他の弟子達が応えて漁に出掛けていく姿に、漁が共同作業であり一人の力では難しいことを知らされます。このことは家庭生活や社会生活、そして教会の宣教活動においても、同じだと思います。
ガリラヤ湖を知り尽くしている漁師である弟子達が、夜通し漁をしても何もとれず、気付けばすでに夜が明けていました。すると、湖の岸に復活をされた主イエスが立っておられました。舟から岸まで二百ぺキス、約90メートルばかりしか離れていませんでした。しかし、弟子達は岸に立っている人が、主イエスだとは分からなかったのです。聖書は「約90メートルしか離れいなかった」と主イエスと弟子達との距離が近かったと強調し、弟子達は自分達の目で人が見えていたけれども、主イエスが見えなかったと伝えております。このことから弟子達だけでなく、私達も復活をされた主が身近におられても、いや私の隣にいても、気付いていない、見えていない、分からないでいるのでないか、と指摘されているのではないでしょうか。しかし、私達が知らないときにも、復活の主がすでにそばに立っていて下さることは、希望と言えます。
主イエスだと分からない弟子達に、主イエスが「子たちよ、何か食べ物があるか」と声を掛けると、弟子達は「ありません」と答えました。ここでは主イエスの方から話し掛けている点が重要です。旧約聖書の時代から神の業がなされるときには、主である神の側から始められております。神の業の主導権は神ご自身が持つのであって、私達人間ではないということです。主イエスが「何か食べ物があるか」と聞いている言葉は、弟子たちが「ありません」と答えることを予想した聞き方だと言われます。そのことから「何か食べ物があるか」は、「何も食べ物はないだろう」と言い換えることもできます。そこには、主イエスはすでに弟子達の不漁、苦しさを知っておられながら、そのことを弟子達が自らの口で、主に答えることが大切であることを促しているのです。今を生かされている私達の悲しみや痛み、苦しさやつらさも、主イエスはすでに知っておられます。その主イエスに見栄や虚勢を張らず、率直に素直に打ち明けること、告白することを、私達も促されているのです。
主イエスの問い掛けに「ありません」と率直に素直に答えた弟子達に、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と主イエスは命じました。「右」は幸福の側、または幸福そのものを意味しております。「網を打ちなさい」と命じられた弟子達は、命じられたままに網を打ちました。ここで申し上げますが、弟子達はまだ自分達と話している相手が、復活をされた主イエスだとは気づいておりません。そのことを踏まえて考えてみますと、弟子達はガリラヤ湖を知り尽くした経験豊かな漁師です。その弟子達が夜通し漁をしても何も取れなかったのに、漁師とは思えない得体の知れない者の言葉に従ったのです。漁師というプライドや見栄、体裁に固執せず、主イエスの声、み言葉に従うことができたのです。私達一人ひとりも、それぞれの人生を歩む中で、様々な知識を蓄積し、経験を積み、友人知人も多くなり、そのことによって生活を築いてきたように思われるかもしれませんが、本日の聖書は、生活を支え築く言葉は、主イエスの声、言葉だと教えてくれております。
主イエスの声、言葉に従い、弟子達が網を舟の右に打った結果は、網を引き上げることもできないくらいに魚が多くとれました。そのときに、「イエスが愛しておられたあの弟子が、ペトロに、『主だ』」と言ったのです。この「愛しておられたあの弟子」が誰であるのかは分かっておりません。しかし、この弟子が誰であるのか、というよりも大切なことは、この弟子が誰よりも復活の主イエスの真の姿を知り証言をする者であったということです。この弟子は本日の個所においては、弟子達のリーダーであったペトロよりも早く、復活の主に気付いたのです。つまり、復活の主がどのような方で、何を示され、教えておられるかを分かった弟子だということです。皆さんの大半は、この「主イエスが愛しておられたあの弟子」と同じように、すでに復活の主について知っておられます。どうぞご自身が人生の中で直接出会って知ったことを、ご自身の言葉で率直に素直に証言して下さいますようお願いいたします。
「主イエスが愛しておられたあの弟子」に、突然に「主だ」と言われたペトロは、裸同然の身に上着をまとって湖に飛び込んでしまいました。ペトロのせっかちと言いますか性急さの性格が表れています。ペトロが冷静に物事をとらえて深く考えたり検討したりする性格であったら、三度も主イエスを知らないなどということもなかったと思います。しかし、ペテロは自らの過ち、裏切りに対して、率直に素直に悔い改めることもできました。裸同然の身に上着をまとって湖に飛び込んだのも、主イエスの前に失礼であり、恥ずべきことだと感じたからだろうと思います。旧約聖書の創世記に書かれております「アダムとエバの物語」ですが、二人が神の前に罪を犯したとき、裸であることを恥ずかしいことだと初めて意識をしました。これは罪の意識と裸の意識が同じに捉えられているのですが、ペトロの場合も同じく理解されます。いずれにしましても、ペテロは主イエスを敬うことを忘れてはいませんでした。
ペテロが湖に飛び込んで泳いで主イエスの方へ近づいていったと思われますが、そのとき他の弟子達は何をしていたかと言えば、引き上げられない程魚が沢山入った網を引いて舟で戻ってきたのです。ペトロが主イエスのもとへいっている間も、他の弟子達が漁を続けていたのです。ここでは、教会の責任を持つ一人の人が不在であったとしても、神の民である人々への牧会、お世話は継続されなければならないことが示されていると思われます。
弟子達が岸に着き陸に上がると、炭火がおこしてありました。その上に魚がのせてあり、パンも用意されていました。パンと魚の食事から私達が思い出すのは、ヨハネによる福音書6章に書かれております「五千人に食べ物を与える」話です。ここでは、わずかなものであっても、主が与えて下さる食事によって、神の民は飢えることはないことが示されます。本日の個所では、主イエスによってすでに魚もパンも用意されていましたが、主イエスは弟子達に「今とった魚を何匹が持って来なさい」と命じました。少しちぐはぐな感じの文章ですが、すでに用意されていたということは、主イエスの恵みが先取りされていることを表しております。また弟子達が魚をとりにいくことには、主イエスが弟子達の働きを用いられることを表しております。私達が求める前から主イエスの恵みが与えられていることに気付くことは幸いであり、その恵みによって生かされ、主の働きをなすものとして用いられることは喜びとなると信じます。
魚をとりにいったペトロが、網の中の魚を数えると、153匹もの大きな魚でいっぱいでした。それでも網はどこも破れていませんでした。153という数字の意味についてはいくつかの解釈があるようです。その一つは、当時地中海に棲息していた魚の種類が153種類と考えられ、つまりすべての魚がとらえられたという解釈です。そこから主イエスの十字架で裂かれた体によって、すべての人類が伝道の網、救いの網にいっぱいにされたという象徴的な理解がなされております。いずれにしましても、153が本当のところ何を象徴しているかは難しく分かっておりません。しかし、「イエスは来て、パンを取って弟子達に与えられた。魚も同じようにされた」と書かれておりますように、ここではパン裂きを含む聖餐を意識し、先程触れました6章の「五千人に食べ物を与える」話との関連があります。
主イエスが弟子達に向かって「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と、主の食卓に招いたときに、弟子達の誰も主イエスに対して「あなたはどなたですか」とは問いただす者はいませんでした。なぜなら皆が「主であることを知っていたから」です。食事は親しい交わりを表します。ルカによる福音書24章に書かれております、エマオに向かった二人の弟子達も、主と共に食事をする中で、二人の目が開かれ主イエスだと分かりました。このときも、主はパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子達に渡しました。イスラエルの家庭では、食前の感謝を述べ、祝福しつつ、裂いたパンを家族に与えるのは主人の役目のようです。
弟子達は復活の主との出会いによって、イエスが主であることに気付き、分かりました。そして、復活の主が求める前から豊かな恵みを備え、与えて下さることを体験しました。そのことを主が備えて下さった食事を通して確かにすることができました。特に裂かれたパンが、十字架で裂かれた主イエスの体であることから、これを受けるときに、主が共にいて下さり、命を与え、生活を支えて下さると信じられたのです。このことは、単に弟子達の信仰や体験ではなく、今、生かされている私達の信仰と体験でもあります。
随分前になりますが、神学校時代のある先生から、下記の一つの英語の詩を教えていただきました。日本語訳はその先生によるものです。
Christ is the Head of this House,
The Unseen Guest at every Meal,
The Silent Listener to every Conversation.
訳:キリストはこの家のかしら(一番偉いお方) 食事のときに見えない
お客 どんな話にも耳を傾けておられる
復活をされた主は、いつも私達と共にいて下さる方ですが、特に私達にとって大切な食事においても共にいて下さっていることを心に留めておきたいと思います。何よりもその食事を備え、与えて下さり、私達に命を与え、生活を支えて下さっている方が、主イエスであることに喜び、感謝したいと思います。そして、主イエスの先立つ復活の恵みは、私達一人ひとりだけではなく、全世界の人々が主イエスの愛の網の中に捕らえられていることを忘れてはならないと思います。
祈祷
聖なる神様。主のみ名を崇め讃美いたします。
あなたは私達がどこにいても、どのような状況にありましても、一人ひとりの名前を呼ばわり、あなたのもとへ招いて下さいます。心より感謝をいたします。
私達は主の年2020年の歩みの中で、私達の目に見えない新型コロナウイルスの流行によって、世界は混乱し、多くの人々がこの世での生活に不安や怖れを抱き、生活に支障をきたしております。このようなときにこそ、私達が本当に畏れなければならないのは、私達の目に見えない神である主イエスです。あなたを畏れることによって、心を静め冷静に感染症予防に取り組んでいくことができますよう守り、励まして下さい。一日でも早い終息を迎えられるよう、特に医学研究者、医療従事者、に知恵と力を与え、健康と安全をお守り下さい。
四谷新生教会はこの4月より無牧師となりましたが、あなたが新たな牧師を遣わして下さるまで、教会員をはじめ関係者の方々の信仰生活、教会生活を支え、お守り下さい。また教会が責任をもって運営している付属幼稚園をもお守り下さい。暫くの間、主日礼拝を礼拝堂で守ることは難しいかもしれませんが、復活をされた主は一人ひとりのそばに、隣に現れて下さいますので、そのことに気付かせ、分かるようにして下さい。
最後に、今世界は新型コロナウイルスの影響で、混乱をし、大打撃を受けております。健康に不安を抱え、生活に困窮している人々も多くおります。どうか主イエスの復活の恵みと力によって、命が守られ、生活が支えられるよう願いお祈りいたします。
これらのお祈りを主イエス。キリストのみ名を通しておささげいたします。アーメン。