ヨハネによる福音書15:1~10
イースター、おめでとうございます。
皆さまと1年間、ともに御言葉に聞いて参りたいと願います。
しかしこのような中です。いや、このような中でこそ私たちの信仰と、主イエスの慈しみに依り頼んでゆきたいと思います。
少し自己紹介を致しますが、私は日本キリスト教団の学生・青年センターである「学生キリスト教友愛会(SCF)」で奉職をしています。イメージとしては、キリスト教主義学校と教会。そのちょうど中間くらいに位置しており、教会に行っている青年が半数。教会を知らない青年が半数。そんな青年たちが夕刻集まり集会を行ったり、土曜や日曜以外の休日に様々なプログラムを企画して親交を深めるとともに、他者に仕えることや信仰的なものに触れてゆく機会を設けています。
この時期は毎年、洗足の木曜日集会を行い、「互いの足を洗い合う」集会を持っています。自ら隣の友人の足を洗い清める体験を通して、十字架に向かわれる主イエスの御心を皆で分かち合う時となっています。しかしこのような状況ですから、残念ですが今年は中止としました。
この4月から四谷新生教会では多くの牧師が説教を担当しますが、その多くの牧師がメッセージの聖書箇所を「ヨハネによる福音書」から選んでいます。それは、ヨハネ福音書が、こと主イエスの十字架と復活に焦点を当てているからです。まさに本日の聖書箇所は、主イエスが弟子たちの足を洗い、その後の夕食の席上(最後の晩餐)で弟子たちに、また私たち一人ひとりに語りかけられた場面であり、言葉です。
イースターの喜びをより深く味わい知るために、今一度、「主イエスの十字架とは私にとってどのようなものであるのか。」を主の御言葉から聞いて参りましょう。
皆さんも何度も聞いてきたこの「ぶどうの木のたとえ」。これがこの最後の晩餐の席上であったことが、また重要です。しかしどうでしょうか。私もかつてはこの箇所は恐ろしく目を背けた経験があります。
「 15:05わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 15:06わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」
この聖句を読み、私たちは不安になります。「私はよい実をつけることができるだろうか?」と。…その想いをもつのは自然でしょう。むしろ、我々の中で誰が「自分はよい実をつけている。よい実をつける自信がある。」と言えるか。だからこそ、私たちはこのように聖書に向き合い、礼拝を守り、一週間の自分を見返しつつ立ち返りの機会を持つのでしょう。
「私は主なる神の目に、よい実をつけていない。そのようなよい実をつける自信もない。」…それでよいのでしょう。
そして我々は、まことにそのような者であることをよくよく自覚しましょう。そのことは間違いない事実でしょう。
では、そのような「実をつけない枝」である私たちはどうなるのか。…父である神によって、「幹から切り取られ、集められて焼かれてしまう。」と聖書は言います。いえ、主イエスがそう言われるのです。
これは、本当に恐ろしいことです。イエスさまと神さまから離されて、全くの虚無の中にあること。主なる神の光も、主イエスの慈しみも、聖霊のあたたかな息吹からも断絶された未来を生きる事。まさに、主イエスが十字架の後3日間過ごされた、あの「黄泉に下り」。その黄泉の中を生きるということ。
…残念ながら、私たちはそれに値する生き方しかしてこなかった。そう言えるでしょう。
私たちだけではありません。「この世界。世のすべてが神さまに従ってこなかった歴史」があります。それが描かれているのが、私たちに与えられているこの聖書です。
神の言葉に聞き従わなかった歴史。神から離れることばかり、自らを頼ることばかりに想いを砕いてきた人間の歴史があります。
人間は自立を望む。神からの自立を。そのどうしようもない私たちの人間性を最も良くあらわしているのが、「アダムとエバ」。神からの自立を望む人間の姿です。
神から離れた方が、もっと豊かでもっと強くなれるのだと。自分たちの力で、今もこれからも「生きるそのすべてを定めてゆきたい」のだと。
神の御心ではなく自分たちの善悪の判断。神の御心ではなく自分たちの価値判断。神の御心ではなく自分たちの裁き。自分たちの自分たちの……
その先には何があるでしょうか。人間同士の争いや痛み。嘘や妬み。弱い人々に目を向けず、力の追求と力による支配。
私たちの人類の歴史が、イスラエルの歴史がまさにそうであった。神からの自立。そして堕落。人間同士の争いと力の支配。生きる希望を失い迷う。その中からの預言者による立ち返り。主の守りの安寧の中で、また神を忘れ自立を求めてゆく。…私たち人類はその罪の繰り返しであった。
その罪の繰り返しの歴史の中で、その極みにあるのが私たち一人一人が形作るこの今、現代ではないでしょうか。
その中を生きる、無自覚に生きる私たちに対し、主イエスはこの時、足を洗ってくださり語りかけてくださる。「私につながっていなさい」と。
「自分の言葉ではなく、私の言葉をいつも胸におきなさい」と。繋がって生きること。頼って生きること。神の目に豊かに生きること。自立して、私たちの目に豊かに生きるのではない。「弱さの中で、罪の中で、その中で、私を頼って生きなさい」とおっしゃるのです。罪人として、従ってきなさい。
私たちはこの「ぶどうの木」の聖書箇所を読むときに、「私から離れるな」「豊かな実を結べ」「焼いてしまうぞ」…と、脅迫的な感覚をもって読み、聞いている。しかし主イエスは、十字架の死のまさにその前夜、最後の晩餐の席上で、弟子たちと私たちに改めてこう証をしてくださっているのです。命がけの証を。
「私は、あなたがたとつながるために父から離れ地上に下ってきた。だから、私のこの手に、愛に、言葉に依り頼み、離さないようにしっかり握っていなさい。私は離さないから。」
「つながっていなさい」…これは私たちへの努力を求める言葉ではありません。ましてや裁きの言葉ではありません。自らその時を知り、望んでくださった十字架の前夜ですから。「私はあなたとつながっている。」という主による約束の言葉。主イエスはおっしゃる。「私は、あなたを離すことはない。何があってもあなたを離さず、必ず滅びから救い、救いへと導く。」と。
私たちは誰一人よい実をつけるものはなく、切り取られ討ち捨てられ焼かれるに相応しい一人ひとりです。それは間違いない。今まさに切り取られようと、自ら切り取られて生きることを望んでいるような日々の中にあって、主イエスは言われます。
「父よ、お待ちください。この枝は、まことに自らよい実をつけることはできません。しかし私が必ず導きます。ですからどうかお救いください。代わりに、私があなたから切り取られ、焼かれて参ります。」と。
イースターの主イエスの復活のこの時、今一度胸に刻みたいと思います。主イエスの十字架が、私と主イエスの「命がけのつながり」を証する出来事であるということを。
「今日ここで焼かれるのは、枝(あなた)ではなく、幹である私自身である。」…主は何というお方でしょう。こんな私のために死んでくださるとは。
今一度主の慈しみに依り頼み、これからの信仰の歩みをなしてゆきたいと願います。
・祈祷:
主なる御神さま。あなたの御子、主イエスのご復活の出来事を心から喜び感謝いたします。
今、世界が、また教会が混乱の中にあります。毛羽だった想いの中にあります。どうか、その中にあるからこそ、立つべきものと依り頼むものを選別する信仰の目をお与えください。また、あなたからの知恵によって、この混乱の中を乗り越えてゆく力とされますように。
無僕という試練の中にある、この四谷新生教会をあなたが特に愛し、お導きをお与えください。
主イエスの十字架と復活という、あなたの大いなる御計画に心から感謝を致します。
私たちの今よりの命も魂もすべて、あなたに向けて歩んでゆくことができますように御導きと御力を願います。
十字架と復活の主の御名によって祈ります。 アーメン。