本日与えられた聖書箇所は、弟子たちと共にゲッセマネの園に行った主イエスが、一人祈られる場面です。
この日、過ぎ越しの食事の席でパンを裂いた主イエスは「これはわたしの体である」と言って弟子たちに渡し、またブドウ酒の杯を取り「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言って弟子たちに渡されました。過ぎ越しの食卓で必ず語られる言葉と全く異なる主イエスの言葉に弟子たちは驚きます。食事が終わると主イエスはオリーブ山に行こうとおっしゃいます。現在、ゲッセマネ(アラム語でオリーブの油搾りの意味)がオリーブ山の何処なのか分かっていませんが、主イエスが好きな場所の一つであったようです。
ゲッセマネに来ると主イエスは弟子たちに「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言い、ペトロ、ヤコブ、ヨセフを連れて場所を移し、祈り始められます。何故主イエスはこの3人を連れて行かれたのでしょうか。まず考えられることは、主イエスの祈る姿を見せ一緒に祈るよう促すためです。主イエスは「目を覚まして祈っていなさい」と言われます。主イエスが3人の弟子たちを側に置いてくださっていたお陰で、私たちはゲッセマネにおける主の祈りを知ることが出来たのです。
さて聖書は、主イエスが「ひどく恐れてもだえ始めた」と言います。「ひどく恐れて」と訳されているギリシャ語は一つの単語で、「驚く」の強調形です。ある研究者はこの単語を説明して「我々が理解できない途方もない存在にぶつかって感じる恐れである」と言っています。激しく迫ってくるのに、それが何だか理解できない存在の前に立たされたときに襲われる恐れです。次に「もだえる」と訳されているギリシャ語は「人々から棄てられているために落ち着かない心」という意味だそうです。
途方もなく大きな存在とは神様です。父なる神の前で子なる神イエス・キリストが何故、そんなに恐れなければならないのか。何故そんなに深く悲しみ苦しむのか。私たちには理解できません。ただ、真に神であられるキリストはこのとき完全に人となってくださっていたことだけは分かります。
今、主イエスは真の人として深く悩まれ、真剣に祈られました。「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」。「私は死にたくありません。他に道はないのですか。」主イエスはそう言っておられます。
「私はあなたの愛を語り、あなたの愛を実現するためにこの世に遣わされました。その私が死ぬほか道はないのですか。もう一度考え直してみてください」。子なる神は父なる神に真剣に尋ねておられます。
主が真剣に祈っているこの時、弟子たちは眠ってしまいました。眠りこけている弟子たちを見出した主イエスは言われます。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。14:38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」。ここで印象深いのは「心は燃えても、肉体は弱い」という言葉です。まずここで「心」と訳されているのは、本来「魂」を意味する言葉です。魂と肉体という言葉が対になって用いられるとき「魂」は神様に支えられてではありますが、神様に向かいあう人間の自発性を表します。それに対して「肉体」は根本的な人間の弱さを表します。また「心は燃える」の「燃える」は「進んで行なう気持ちがある」という意味を持っています。つまり、心は喜んで今か今かと備えている。けれど肉体が弱いために備えが崩れてしまう、もろい土の器の状態です。
主イエスは神様の御心はこれしかないということが明かになったとき、土の器の私たちのために「全てを懸けて神に従う心」を言い表します。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。主イエスは「あなたが気持ちを変えてくださらないなら仕方がない。従いましょう」と言っておられるのではありません。「神様がそう求められ、そう命じるのなら、喜んで従います。前進します」。そう、熱く語っておられるのです。
主イエスが再び戻ってこられたとき、弟子たちはまた眠っていました。主イエスがこんなにも熱く祈っておられるのに、弟子たちは何故こんなに簡単に眠ってしまうのでしょう。ある神学者は一言「退屈だったから」と言いました。過ぎ越しの食事で主イエスがおっしゃったことが理解できなかった弟子たちだから、主が祈っておられることが自分たちに関係していると分からなかった。だから、祈ることも、目を覚ましていることもできなかったのだと思います。けれど本当は、ここで「思います」と他人事のように言うなんて許されないことです。何故なら、目を覚ましていられなかった弟子たちの姿は、全てをかけて神の御心に従うという姿勢がない私たちの姿だからです。
主イエスは、神様の御心に従い前進するために祈られました。それは祈ることもできず、目を覚ましていることもできない私たちの罪の贖いのためです。御心に従えないため神の裁きを受けなければならない私たちを罪から救うためです。それなのに私たちは「だって、私たちは弱くてもろい土の器だもん」と言えば、言い訳が立つと思っている。こんなにも大きな罪を犯していることを自覚できない私たちのために、もだえるようにして祈ってくださる主イエスの愛に気付かず、眠り込む私たち。主イエスの孤独はどんなに深いものだったかと、恐ろしくなります。
主イエスが三度目に祈りの場から戻ってこられたときには、主イエスの心は定まっていました。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」。主イエスを敵に渡す者が近づいて来たのです。「さあ立ちなさい。渡されるためにわたしは行く」。主イエスは、わたし達に対する神の裁きの厳しさを正面から受け留め、十字架の死に至る道に踏み出されます。裁きが始まったのです。
「もうこれでいい。時が来た」。この時とは、主イエスが只一人十字架の上で苦しむ時が来たという意味ではありません。神様が御心を明らかにされる時が来たということです。これから死に赴く主イエスを神様は受け入れてくださいました。主イエスが十字架の上で真実の死を死なれたから、父なる神によって真実の甦りが用意されていたのです。
ゲッセマネで、人間が眠りこけ罪を露わになる状況の中で、主イエスは一人目覚めて祈り続けてくださった。この祈りがなかったなら、私たち人間が望みをもってこの地上を生きる道は開かれなかったことを肝に銘じたいと願います。