マタイ7:24-27
山上の説教は教えを聞いて喜んだり感心しているだけでは何も変わりません。主イエスの弟子と呼ばれるには、主イエスの言葉を受け止めて決断し、主イエスに従って歩みだす必要があります。そこで主イエスは、様々な例えを用い正しい道を選ぶよう説かれました。そして本日の聖書箇所で主イエスは、家の建て方を通して見かけだけのキリスト者にならないようにと言われるのです。
ここに家を持ちたいと望む二人の人がいます。二人の家族構成も似ていたのでしょう。二人は同じ川の側に同じような土地を選び、同じような材料で同じような家を建て、住み始めます。するとある日、二人の家を大嵐が襲いました。翌朝、嵐は去りましたが洪水のせいで木々が倒れ、家々も被害を受け、あたりの景色はすっかり変わっていました。あの二人の家はどうなったかと言うと、一方の家はしっかりと建っているのにもう一方の家は倒れています。何故こんな違いが起こったのでしょう。
主イエスはその違いは土台にあったと言われます。嵐に負けず倒れなかった家は岩を土台にしていたのに、倒れた家は砂地の上に建てていたのです。チョット見では見分けられない土質の違いが、二つの家の将来を全く違うものにしてしまいました。けれど嵐が来て初めて二軒の家・二人の人の違いが分かるのでは手遅れです。
主イエスは、普段人々が気にもしない土台に注目させ、私たちに御言葉に従うよう求めておられます。それは、私たちが知らぬ間に道を踏み外さないため、罪を意識しないまま罪を犯さないためです。
土台となる土地が岩場か砂地か調べるためには土地を深く掘る必要があります。面倒ですが、安全に生活するためには絶対必要なことです。新築の家に招かれたとき、お客さんたちの多くが間取りや建材について質問したり褒めたりします。けれど土台を話題にすることはほとんどありません。土台は隠れた存在ですが、土台がしっかりしていなければ、どんなに良い建材で造った家であっても災害が起こると直ぐ倒れてしまいます。それは家を建てるために注いだ努力の全てが無駄になるということです。
パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰで「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません(3:11)」と言いました。信仰生活にとっての岩のように頑丈な土台はイエス・キリスト以外ありません。そして主イエスが私たちキリスト者に教えてくださった事柄の中心は「神を愛し、自分と同じように隣人を愛す」ことです。そこで、イエス・キリストの御言葉を聞きながら、御言葉に忠実に生きていない人は「名前だけのキリスト者」と呼ばれるのです。
「名前だけのキリスト者」本人は御言葉に忠実に生きていつもりだと思います。両者共、同じように主の慰めを必要とし、罪の赦しの確かさを信じたいと願い、神の国を目指して信仰生活を送っているので、普段の生活では、中々見分けがつきません。けれど何か事件が起こると、「名前だけのキリスト者」の信仰は崩れます。それはイエス・キリストを信じながら、愛以外のものを大切にしているせいです。
キリスト者にとって愛より大切なもの。例えばそれは「聖霊です」。前任地には単立の教会に、信徒に聖霊を注ぐことの出来る牧師がいました。「その教会では異言が語られているし、癒しも起こるらしい」との噂があり、特別な力を得たいと望むキリスト者が次々集っているようでした。彼らは、霊的力を使って他人を助けることが「愛」だと信じていたかもしれません。けれどそれは、隣人を愛しているのではなく、隣人を愛する自分を愛しているにすぎません。自分に聖霊が下ったと肉体的に実感しなくても、信仰告白をし、バプテスマを受けた人は皆、聖霊を注がれています。今現在も聖霊に導かれて生活しています。それを信じられないのであれば、名前だけのキリスト者といわれてもしかたありません。また、牧師が教会を変わると一緒に教会を変わる人がいます。それは主イエスの教えより牧師の教えを愛しているので、決して信仰熱心な姿とは言えません。こうした例で分かるように信仰生活のあり方は偽造できるため、キリスト者の偽物と本物を区別するのは困難なのです。
けれどパウロが「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」と言うように、私たちの信仰の頭石はイエス・キリストです。頭石とは家の土台を決定する親石です。また壁と壁をつなぐ角石であり、屋根のアーチを支える要石です。つまりそれは、私たちの信仰が入門の初めから神の国の祝宴の席に着くまで、いつもイエス・キリストによって支えられ、導かれているということです。
神の国に通じる狭い門の存在に気づかせてくださり、そこから始まる細い道に入る勇気を与え、人通りの少ないその道を私たちが歩めるよう導いてくださる方です。そして何より、神様の前に私たちと共に立って、神様に対して私たちを罪の無い者として紹介してくださる方。それが私たちの主、イエス・キリストです。その主イエスから「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れされ」と言われないために、主イエスによって真のキリスト者の道へと導いていただくために、自らの信仰のしっかりと土台を確認し直したいと思います。