「口と心」
マタイ7:21~23、9月20日遠野教会
讃美歌21-134、449、
マタイによる福音書の5章3節から始まった山上の説教は、主イエスがご自分の側に集まった弟子たちに語った教えを集めたものです。本日の聖書箇所は山上の説教の終りの部分で、「狭い門から入り、細い道を行け」との主の命令を聞いた私たちが、「狭い門を選んだつもり」とか「細い道を歩むふり」とか、自分を欺く生活をしているとどんなことが起こるかを、主イエスが教えてくださっている箇所に当たります。
主イエスは「「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」と言っておられます。主イエスに向かって一番「主よ、主よ」と呼びかけている弟子たちは、この教えを聞いて開いた口がふさがらなかったのではないでしょうか。何故かと言うと、信仰告白をし、洗礼を受けた教会員の方々が、毎週礼拝に出席し、様々な奉仕を担っておられても神に喜ばれていないですよ、と言われたら、やはり唖然とされると思うからです。
パウロは「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない(1コリ12:3)」と言いました。けれど主イエスは、「イエスを救い主である、主である」と告白する全ての者が、天の国に入れるのではないと言われます。
主イエスがそんなことを言われる理由。それは、人々の信仰の内にある霊的熱意と肉的熱意の違い。神によって起された熱意と人間的な熱意の違いを主イエスが見極めておられるからです。神が起こしてくださった熱意に動かされたとき、その業は奉仕になります。そして業を為し終えた人の心に湧き上がるのは、自分を用いてくださった神への感謝です。けれど、人間的な熱意に動かされたとき、周囲の人々にはそれが奉仕の業と映っても、主にとっては本当の意味での奉仕でないことが分かってしまう。何故なら、その業を為し終えた人の心に湧き上がるのは達成感や自己満足だからです。ある偉大な説教者が「説教者が一番気を付けなければならないのは『人間的な熱心さで語らない』ことだ」と言いました。これは、その説教者が自己満足の恐ろしさを知っていたことを示す言葉だと、私は思います。
また主イエスは、「主よ、主よ」と呼ぶ人たちが「わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行った」と言っても、「私はあなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と言う、とも言われています。この主イエスの言葉を重く受け止めたパウロは、コリントの信徒への手紙Ⅰの12章で「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです(9:27)」と言っています。パウロはこう述べた後、次の13章でくどい位に愛の大切さを語ります。それを本日の主イエスのメッセージに沿って解釈するなら、伝道旅行を重ね、幾つも教会を立ち上げて来た原動力が純粋に霊的熱意だけではなかったのではないか、と言うパウロの反省が込められていた。自分の中に見出した人間的熱意を打ち叩く経験を積み重ねた結果が「愛が無ければ無に等しい」という言葉になった、と受け取れます。
「私は主イエスの御名のために一生懸命伝道してきた。幾つも教会を生み出し、主イエスと共に旅した使徒たちに比べて勝るとも劣らぬ働きをしている。でも、それがなんだ。例え、人々からこの世で最高の説教者と思われても天国に入れないかもしれないのだ。人をキリスト者とする資質は愛だと主イエスは教えてくださっている。私は人間的な熱意に押されて伝道していなかったか。私の伝道は愛に根差していたか。どれ程の功績を残しても、愛を欠いていたら一切は無益だ」。自分に対する恐れがあったからこそ、パウロは「他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないため」に自分の体をたたき、主に服従させることを繰り返していたに違いないと、私は思います。
パウロは最後の時に名高い説教者たちと一緒に天国の外にいる自分を想像し恐れました。けれどパウロにとって、恐れの原因は本日の聖書箇所にある主イエスの言葉だけではなかったはずです。何故なら、主を裏切ったイスカリオテのユダでさえ、主イエスの弟子として御国を宣べ伝え、悪霊を追い出す力を与えられていたのです。主イエスと共に旅していた時は、彼もキリストの名によって熱意をもって働いていました。でも最後に彼は自ら自分を天の国の外に追い出しています。主の名によって、主の名のために働きながら天の国に入れない人がいることを証明するのに、彼ほどふさわしい存在はないでしょう。
主イエスは「御名によって奇跡をいろいろ行って」も天の国に入れない者がいるとも言われています。確かに、モーセと戦ったエジプトの預言者たちもある程度の奇跡を起こすことが出来ました。主イエスやパウロが活動した時代には、ローマ帝国の植民地のあちこちに悪霊追放を仕事とする人たちがいました。使徒言行録を読むと、神の名やキリストの名によって悪霊を追放していた人々の存在が記されています。神からいただいた能力だけでなく、イエス・キリストの名を商売道具に使っていた彼らが、天の国に入れるはずがありません。何故そんなことが起こるかと言えば、一番は悪魔の働きです。
悪魔は「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われる(ルカ16:15)」。主イエスの教えをしっかり覚え理解しています。それに悪魔は光の天使の姿をとることさえできる力を持っています。光の天使を装った悪魔は、その姿と巧みな言葉で、自分はイエス・キリストを信じていると信じるエセキリスト者、偽物のキリスト者を生み出すのです。悪魔にとっては、間違った信仰で神に「主よ、主よ」とすがったり、神の為と自分の為をごちゃまぜにして社会に貢献する人々が出て来たら大成功です。そのためなら悪魔は人々に預言や奇跡を起こす力を与えることさえします。悪魔には、天の国の外に留まっている人が多ければ多いほど喜びだからです。
マタイによる福音書の24章に主イエスが世の終わりについて弟子たちに教えられている言葉があります。そこで主は「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとする (マタイ24:24)」。と言われています。どんなに効果のある癒しの業であっても、聖霊から出ていないものがある。だから注意しなさい、と言っておられます。
聖書には、特に旧約聖書には「神がご自分に属さない人にご自分の力を与えて、ご自分の目的を達成された」という記事が度々出てきます。神の御用に役立ったその人たちはどうなったかと言えば、天の国に入ることは許されていません。主イエスは人々からの尊敬を喜ぶファリサイ派の人たちに向かって「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われる(ルカ16:15)」と言われました。これはルカによる福音書にある主イエスの言葉です。このように主イエスは、自分の判断は律法学者やファリサイ派の人々とは異なることを何度も何度も告げています。そして神の御用のために立てられたとしても、彼らの居場所は天の国の外しかない、と警告してくださっています。主イエスが繰り返し語られているということ。それだけでも、人間的熱意に惑わされないための用心が必要なのです。
私たち人間の弱さ。それは、心の思いと口から出る言葉がかけ離れていることに気付けない弱さです。私たちの愚かさ。それは自分穂にな熱情を神が与えてくださった熱情だと思い込む愚かさです。
主イエスは天の国に入るのは「天の父の御心を行う者」だと教えてくださっています。そして「狭い門と細い道」を見出し、その道を選び取った者が「天の父の御心を行う者」へと変えられて行く、と言い切っておられます。つまり、私たちがどんなに弱くとも、愚かであっても、「天の父の御心を行う者」へと変えられて行く可能性は開かれているのです。そして、その方法はただ一つ。聖書に親しみ、与えられた御言葉について思い巡らし、自分に当てはめて考える。そして罪を認め悔い改める。この繰り返ししかありません。自分自身を天の国の外へと追い立てるようなことが無いよう、御言葉から目を離さず、
キリストに似た者となる目標を掲げて、新しい州も歩んでいきたいと願います。
お祈りしましょう。
愛と正義に富み給う主なる神様、休むことなく欠け多い私たちを見守ってくださるあなたの慈しみに感謝します。あなたは今日も、私たちの弱さに気づかせ、あなたから離れず歩む道を示してくださいました。ありがとうございます。どうか私たちが悪魔に捉えられ、独善に陥いったり自分の信仰に酔うことが無いよう、常に離れず見守ってください。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお捧げします。アーメン