先日クリスマスに関する本を読んでいましたら面白い記事がありました。「クリスマスに関して断言できること。それはイエスが12月25日には生まれなかったと言うことだ」と言うものです。本当にその通りで、クリスマスが12月25日になったのは、政治的な判断でした。
記事によると何故か、比較的早い時期からイエス様は25日にお生まれになったと信じられていました。けれど何月の25日かは中々定まりません。それが、4世紀の半ば教皇ユリウス1世が「本日より公式に、キリストの誕生日を12月25日とする」と布告を出したことで、この日が主イエスの誕生日となったのだそうです。
ところで、本日の聖書箇所にはイエス様が布にくるまれて飼い葉桶に寝かせられているという表現が3回も出てきます。新約聖書は最初から手紙の形だったので、無駄のない文章で書かれています。これだけはきちんと伝えておかなければならない、という思いで書かれています。繰り返し同じ言葉が出てくるとしたら、書き手のくせか・強調したい事柄かのどちらかです。
ルカによる福音書の著者は、ヨセフとマリアの置かれている状況を説明して「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」と記します。次に天使が羊飼いたちに救い主のお生まれを告げる場面で「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と記しました。そして天使の招きに従って出かけた羊飼いたちがメシアに出会った場面では「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」と記しています。これらの描写の特色は、飼い葉桶と赤ちゃんという組み合わせが、相応しくないことです。
柔らかくて傷つきやすい生まれたての赤ちゃんに対して重く荒削りな木で出来た飼い葉桶。しかも飼い葉桶の中には渇いて堅くなったとうもろこしの粒やとんがったワラなどの餌が家畜たちのよだれと混じって入っています。古代イスラエルでは、山の中腹をくりぬいた洞窟で家畜たちを飼っていたので、飼い葉桶も洞窟の中に置かれていました。赤ちゃんどころか、世界を救うために世に来られたメシアが休むべき場所ではありません。けれどこの洞窟が、ヨセフとマリア夫婦の宿れる場所でした。
当時も旅人は大勢いたので、どの町にも宿屋はありました。けれどヨセフとマリアの旅は、ローマ皇帝が全領民に向かって出した住民登録の勅令のためです。住民登録は自分の出身地でしなければなりません。そこで帝国内の人がいっせいに自分の出身地に向かって旅立ちました。どこの町も宿屋だけでは旅人を収容しきれず、泊まる場所のない人がいっぱい出ました。当時のイスラエルでは旅人に宿を貸すことは信仰的な施しの業とされ、積極的に行うように勧められていたので、一般の民家が施しの業として自分たちの家を旅人たちに提供していました。それはベツレヘムの村でも同じだったのに、ヨセフとマリアを泊めてくれる家がありません。満足のいく宿代が払えなかったのでしょうか。二人はアチコチの家で「あなたがたのための場所はありません」と宿泊を断られます。柔らかな表現で言えば「人々の善意から漏れた」のですが、率直に言えば「利益ももたらさない者のための場所はないと拒絶された」のです。
マリアは社会が拒絶する中で赤ちゃんを生みました。聖書が「飼い葉桶に眠る乳飲み子」という表現を繰り返したのは、無力な庶民に対する社会の拒否を伝えるためだったのです。
天使たちによる「救い主の到来」の知らせは、最初に羊飼いたちに告げられました。羊飼いはイスラエルの人々に馴染みの深い職業ですが、出産や羊毛の刈取りなど常に羊の世話に明け暮れる厳しい仕事で、村人たちのように宗教行事を守ることが出来ません。また羊の臭いが染み付いています。そのため、羊の毛も皮も肉も生活の必需品なのに、羊飼いは人々から軽んじられていました。だからこそ私たちは、信仰の父と呼ばれるアブラハムやその子孫の族長たち、そしてイスラエルの国を統一したダビデが羊飼いであったこと、また神様も主イエスもご自分を羊飼いに喩えておられることをしっかり覚えたいと思います。
羊たちに質の良い草を食べさせるために旅をしている羊飼いたちは今、野犬や獣から羊を守るために野原で寝ずの番をしています。すると天使たちが羊飼いたちに向かって「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」と歌い、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」ことを知らせるしるしが「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」であると伝えます。
「この世から冷たく拒絶された体験を持つ羊飼いなら、柔らかくて傷つきやすい赤ちゃんと臭くてごつごつした飼い葉桶という有り得ない取り合わせの意味が判るよね」。私には天使たちがそう言っているように聞こえました。そして聖書は、乳飲み子として世にこられた救い主は人々の冷たい拒絶にもかかわらず、それどころか冷たい拒絶をものともせず、穏やかに安らかに眠っておられると記しています。それは社会がどんなに拒絶しようと、神の救いの計画は確実に進んでいくことを私たちに教えています。
宗教改革者のルターは「聖書はキリストが横たわる飼い葉桶である」と言い、新旧約聖書の何処を開いてもキリストがそこにおられることを教えています。けれどそれは、私たちがそんな所におられるはずがないと思う箇所にもキリストがおいでになると言う意味でもあります。人間の拒絶を拒絶される主は「人間の冷たい拒絶の現れる場所こそが私の働き場だ」と言って働いておられるのです。主イエスを通して救いをもたらされる神様が、その惜しみない愛によって人間の拒絶を拒絶されるところにクリスマスの恵みがあります。
赦す、献げる、愛の業を行う。それぞれにクリスマスの喜びを現してまいりましょう。