主は今、狭い門を入って行くよう、私たちを招いておられます。
私たちに求められているのは、狭い門と広い門を見比べ、あれこれ批評することではなく、自分がこの門を入るか入らないか決断することです。
福音が求めることは、主イエスの教えに自分の人生をかけることだけなので、キリスト者にとって主イエスの招きは
「自分の信仰告白は本物か」「自分は生活の全てをイエス・キリストの教えを基準に行動しているか?」という問いに変化します。
主イエスはここで「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」と言われています。
何故狭い門を「見いだす者は少ない」のか。答えは一つ。それを探し求める人が少ないからです。
ちょっと気を抜くと見過ごしてしまう小さな門。一生懸命探さないと気付けない細い道。
それでも私たちは、その門と道を見出すために出て行かなければなりません。
マルティン・ルターもジョン・ウェスレーも、始めは自分の為すべきことが何か分かっていませんでした。
それでも彼等は求めることを止めませんでした。正しい道の発見に至る悪戦苦闘する中で、彼等は自分自身と正面から向き合い、
あるがままの自分を率直に認めなければならない経験をさせられました。その結果、彼等は狭い門を見出し、細い小道へと入って行ったのです。
ルターやウエスレーの生き方は、自分が主イエスの言われる狭い道を歩いていると分かるまで休めないことを、私たちに教えています。
しかも自分が狭い門をくぐり細い道を歩いていると分かったら、後はひたすらこの道を歩き続けるのです。
自分が神の子であり神の家族であるという自覚を持ち、キリストの教えに従って行動する。それしかありません。
ここまで読むと、「聞くだけで疲れた。何故そこまでしなければならないのか」と思われた方もいると思います。
でも、そうする理由は当然あります。「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」からです。
私たちの前には広い道と狭い道の二つしかありません。しかも私たちは既に、どちらかの道を歩んでいます。
広い道。それはこの世が支配する道です。政治・経済・文化。どの分野であっても、次々と湧きあがる欲望に振り回されると、
人生をすり減らし滅びに至る他ありません。また旅は目的地あっての旅です。旅の目的を定めずに出発すると目的地に通じる道を探すことが出来ません。
どんなに旅人を気取っても旅そのものを目的とする者は放浪者にすぎません。この生き方も行き着くところは滅びです。
それに対して狭い道は、私たちを豊かな世界へ導きます。この世の人生において多くの苦難を体験しなければならないとしても、
それは栄光へ至る道だからです。主なる神が私たちを狭い門から入らせ、細い道を歩かせようとする最大の理由がここにあります。
「広い道と言うこの世を捨てることは、地位や財産を捨てることだけでなく、友人知人を捨てることだ。
それどころか古い自分さえ捨てなければならない」。狭い門をくぐる自分をそんな風に想像する人が居ます。
けれど、それは違います。細い道を行く私やあなたの周りには一緒に歩いている人たちの姿があります。
確かに、この道を見出す人は多くありません。けれどその人たちは、私たちと同じように選ばれ聖くされた人たちです。
それに何より、皆に先立ってこの細い道を行くあの方の存在を知っています。
「私に従って来なさい(マタイ4:19)」と呼びかけてくださる方、この世を見据え
「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい(マタイ16:24)」と言われる方が先立ってくださっていると知っているのです。
この狭い門をくぐるの「主イエス・キリストの後に従う」以上の理由は要りません。
神は、私たちが主のお姿に益々似た者となるようにと願ってこの門を示してくださっています。
捨てなければならないものについて考えるのは止めましょう。それらはもともと価値など無いのです。失うものについて思うのも止めましょう。
それらは必要ではなかったのです。犠牲・苦痛、そんな言葉は使うべきでもありません。
それより主が今もこの道を歩んでくださっていることに心を寄せましょう。それで十分です。
後になってからでないと気付けないことではありますが、何も失ってなどいないのです。
それどころか、返って多くの物を、「一切」と言えるほど多くの物を得ているのです。
最後に、「この聖句の通りなら、狭い門から入るという自分の決断と行為が自分自身を救うことにならないか?」という質問に答えておきます。
聖書は「全ての人は信仰によって義とされる。御自分の死によって死を滅ぼしてくださったイエス・キリストによって私たちは救われる」と教えています。
実際、全世界は神の前に罪とされていて、誰も自分自身の行いで自分を救うことはできません。
では「狭い門から入れ」という聖句をどう理解するのが正しいのでしょう?
チョット想像してみてください。狭い門を見つけてくぐる人とはどんな人でしょう?細い道を歩いている人とはどんな人でしょう?
…救われている人です。パウロが「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません(1コリ2:14)」と言っている通り、
生まれながらの人間が狭い道を行くことはあり得ません。ですから、救われていなければそこにいるはずがないのです。
私たちキリスト者は聖霊の働きによって心貧しい者とされ、幸いを得ました。聖霊が働いてくださることで、自分が主のものである事を喜ぶ者とされ、
聖霊が働いてくださることで、狭い門を見出し中に入りました。神の子とされたことを喜び、
山上の説教で示されたキリスト者となることを目指してあきらめないなら!例え失敗を繰り返していても、私たちは細い道を歩んでいます。
ここは完全な人が歩む道ではありません。主に従いたいと願っている人たちの道です。私たちがすべきことは唯一つ。
余計な事に気を取られず、失敗を気にせず、狭い門に入れるよう祈り求め続けることです。そうすれば何時か必ず、イエスを仰ぎ見る人々の中に自分を見出します。