主イエスは「狭い門を発見し、そこから始まる細い道を行きなさい」と呼びかけました。
そしてそれに続けて「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」と語りました。
偽預言者とは「いかにも預言者らしい恰好をして、預言者らしい話しかたをするけれど、神の言葉から遠く離れたことを語る人たち」です。
しかも偽預言者は人々が狭い門に入らぬよう何時も狭い門の外側にたむろし、人々を惑わせようとしているから注意しなさいと主イエスは言われます。
でも、どうすれば神の言葉を語る役目の預言者と悪魔の手先の偽預言者の見分けられるのでしょうか。
そんな私たちに、主イエスは「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
大丈夫、信仰者なら見分けられる」と言われます。では、主イエスが言われる「預言者が実のらす実」とはどんなものなのでしょうか。
他の場所で教えられたとき、主イエスは「誤った教えがあるところには誤った生き方がある」と言われました。
では、偽預言者たちが選ばない生き方とは何か。そう言われれば簡単に分かります。「狭い門から入る」ことです。
例えば旧約聖書の三大預言者の一人のエレミヤはです。偽預言者たちは国家の手先になって「平和・平和」と語っていた頃、
彼は神の命令に従って権力者たちの不義不正を告発し、敵の侵入は神の裁きだと語りました。
そのため王様の怒りを買い、死ぬような目にあっています。偽預言者たちは「私たちの世界は不完全な人間が支配する世界だ。
当然多少の悪は存在する。従って戦争も災害も起こる。しかし、愛の神が共にいてくださるのだから、我らが大きく傷つくようなことは起こらない。
世界は良い方に向かっている。信じて待てば良い」と、人々を安心させる言葉を語ります。
また偽預言は聖書で語られている正義や公正については触れず、愛だけを語ります。
もっと言うなら、彼等は正義や公正、聖なる潔さや神の怒りに向かわせないよう、巧みに人々を導くのです。
この他にも、偽預言者が強調しない教理に「最後の審判と滅び」があります。主イエスは、山上の説教の中でも最後の審判について語られました。
例えば「もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。
体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちないほうがましである (5:30) 」がそれです。ところが彼等は、
そうした記述はあまりに衝撃的だから聖書にあるべきではないとさえ言うのです。
けれど最後の審判について語らないと言うことは、私たちの罪を真剣に取り上げないのと同じことです。
罪を真剣に取り上げなければ、「キリストの十字架上の死によって私たちの罪が処刑され、私たちが神と和解出来た」というは信仰を持てません。
そこで彼等は徹底的な悔い改めについては触れることなく、十字架をめぐる人々について感傷的に語るのです。
当然この信仰には「狭い門」も細い道も必要ありません。そこで偽預言者は「狭い門」に入る必要を語らないと言う訳です。
また十字架上で死なれたナザレのイエスを救い主・キリストと信じる私たちは、
主イエスの御言葉に従わなければ、裁きのときに主イエスの言葉が私たちを訴え、罪に定めると信じています。
それに対して偽預言者は、自分がこの罪を犯すことは決してないと判断した行為だけを罪とし、人々に犯すなと教えます。
つまり彼等が罪と定めた行為を犯す可能性は皆無なのです。
こうしてみると、簡単に手に入る安っぽい救いと安っぽい生き方を人々に差し出しますのが偽預言者たちであることがはっきりしてきました。
「ただイエスだけを見つめよ」と聞けば、皆さん正しいと思われるはずです。
けれどそこに「ただイエスだけを見つめ、自分を見るな」とくっついたらどうでしょう。
「オヤ変」と思ってくださいましたか?聖書はあらゆるところで自分自身を吟味し、試すことを私たちに勧めています。
ですから「自分を見るな」の一言が加わるだけで、信仰者を神から引き離すことが出来るのです。
安っぽい生き方に満足する人は自分自身の魂を深く探ることをしません。そうした人々を捉え、神から話そうとして偽預言者は上手に言葉を使うのです。
偽預言者のことを「無意識な偽善者」と呼んだ神学者がいました。
それは「自分がキリスト教だと信じている信仰を語っているだけなので、積極的に人をだまし陥れる気持ちなど彼らにはない。
彼らに悪気が無い」と言う意味です。つまり人柄は偽預言者を判断する基準になりえないのです。
私は心理学の授業で「八方美人は無意識な偽善者だ」と習いました。
教授の説明によると「みんなに好かれたい・受け入れてもらいたと思う人は、目の前にいる人が喜んでくれることを何より大切にするので、
目の前の人を喜ばすことだけを考えてしまう。だから話す相手によって自分が全く違うことを言っていることも気づかない」のだそうです。
偽預言者たちが聞き手に安っぽい信仰を差し出すのも、自分を高く評価してもらいたい、大事に扱ってもらいたいと願うからです。
けれど、神よりも自分の社会的評価を大切にするその態度こそが自分を偽物におとしめていることに彼らは気付かないし気付いていません。
そしてそれこそが、彼らを気をつけなければならない理由なのです。
主イエスは、主に従う者には苦難や迫害があると言われました。分かっていても困難に出会えば心が弱り、慰めが欲しくなります。
そんなとき安易な道を勧める偽預言者と出会ったら、彼らの勧めに従ってしまわないとも限りません。
もしそうなったら行く先は滅びです。主イエスは私たちが滅びに向かわぬよう、
ワザワザ「羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来る偽預言者に注意しなさい」と言ってくださっています。
偽預言者に惑わされず、既に永遠の命が約束されたキリスト者として愛の主に従って狭い門をくぐり、神と隣人に仕えて行きたいと願います。