いよいよ山上の説教も終わりに近づきました。7章13節から7章27節で主イエスは、主の教えに従った日常生活をするか否かを神の裁きを意識して決断するよう勧めています。
主イエスは、山上の説教が示す生き方が私たちにとって困難に見えることを良く御存じでした。だからこそ「狭い門から入りなさい」と言われます。この門は人一人がやっと入れるくらいに狭く、そこから始まる道は細く、道を歩いている人はまばらです。楽々進めるので大勢の人がどんどん入っ行く広い門とは大違いです。それでも「この狭い門から続く道を歩みなさい」と主イエスは命じられます。教会が伝道しようとしているキリストの福音は、妥協の余地なく狭い門であることをキリストご自身が宣言しているのです。
狭い門を通り抜けるためには、邪魔なものは捨てなければなりません。その基本が生きる姿勢です。パウロが「めいめいが自分の重荷を担うべきです(ガラ6:5)」と言っているように、私は神の前に自分の生き方の責任を負う存在であるとの自覚が必要です。例え周りと違った例外的な生き方になったとしても、神に誠実であることが求められるからです。
次は、習慣や伝統などを含むこの世の精神からの離脱です。この世は「右の頬を打たれたら、何処でもいいからボコボコに打ち返せ。勝つことが生きることだ」と教えるのに、主イエスは「右の頬を打たれたら左の頬も向けなさい」と言われました。私たちが「敵を愛し、嫌いな人に善を行い、自分をいじめる者のために祈る」者となるためには、自分にとって宝と思える多くの物を捨てる必要があるのです。時々「とにかくキリストのもとに来なさい。きっとすべてがうまくいくようになるから」と友だちに言われたから教会に来た、と言う方に出会います。友だちはそう言ったかもしれませんが主イエスは決してそんなことは言われていません。それが困難な道であることをはっきり告げておられます。
ところが主イエスは、命にいたる道へつながる狭い門をくぐるためには、これだけ捨ててもまだ足りないと言われます。まだ捨てる物が残っているでしょう。…それは「全ての中心に自分を置かないではいられない自意識」です。聖書的な言い方をするなら、私たちの罪の性質を代表する「古い人・アダム」です。
福音は自己中心と高ぶりを叩き潰します。「心の貧しい人々は、幸いである(5:3)」。主イエスは山上の説教をこの言葉で始めました。けれど生まれながらに心の貧しい人はいません。自己中心で自分本位の人間は、自分が全てにおいて豊かになることを望ことはあっても、心が貧しくなることなど゙望まないからです。
狭い門はそんな自分自身を捨てるよう求めます。常に自分のことばかり考えている人間が、どうやったら主イエスの後に従って父なる神の子になれるでしょう。どうやったら敵を愛することが出来るでしょう。「裁かれないために裁かない。自分にしてもらいたいことを他の人にする」。これらの命令は「自分を捨て、自分の十字架を負い主イエスに従って行く(マタイ16:24) 」ための唯一で具体的な方法です。そして自己を捨てるとは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです(ガラ2:20)」と言ってパウロと共に信仰を告白することです。
繰り返しますが、狭いのは門だけではありません。そこから始まる道も狭く細いです。周囲から疎んじられ、悪口を言われます。迫害さえ覚悟しなければなりません。そんな、ほとんどの人が背を向ける困難な道だから、「それを見いだせる人は少ない」と言われるのです。けれど聖書は当たり前のように、この世は何時も神に従う人を迫害してきたと言います。主イエスも「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ(マタ10:34)…こうして自分の家族の者が敵となる(36)」と言われます。福音は何処までも正直です。入り口の狭さ、歩むべき道の細さ困難さを隠しません。「じゃ、止めます」と言われるのを恐れる気配もありません。それは福音が道の困難さと共に、神の国と言うこの道の恵みに満ちた到達点も告げているからです。
でも教会の皆さんの姿は、様々な困難の中で信仰生活を続けておられる理由が神の国という目標だけだとは思えません。ある方は「何かしら発見があるから、聖書を読むのは止められない」と言われました。ある方は、クリスマスイブの夜「心配していた○○さんも××さんも出席できてうれしい」とつぶやかれました。それは主イエスに従って神の国を家座主歩みに、苦労を超える喜びがあることを教えてくれています。
私たちを罪の刑罰と 陰府から救うために来られた主イエスは「良い行いに熱心な民を、御自分のものとして清めるため(テトス2:14)」にも来て下さいました。私たちも主イエスに従ってこの世から出、狭き門を通って神の国を目指すこの道に入れていただき、必要なら血を流しつつ、何処までも主イエスに従って行きたいと願います。