「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」。
昔、教会学校の先生から「これを黄金律と言います」と教わりました。黄金律とは、それを守っていれば人生で大きな失敗をすることが無い、と言える倫理的な教訓。あるいは人生にとって最高に有益な教えのことです。けれど、主イエスが教えてくださったこの黄金律は独立していません。何故なら、12節は「だから」と言う言葉で7節から11節までと繋がっているからです。しかも7節は7章1節から始まる「人を裁くな」の教えに結ばれています。つまり12節は「人を裁く」という問題のまとめの言葉なのです。
では具体的に「人にしてもらいたいと思うことを人にする」にはどうしたら良いのでしょう。私は、他人が自分にしてくれて嬉しいことの一覧表を作りました。次に人と接するときには「この人も、私と同じ人間」と自分に言い聞かせました。「同じ人間なら、同じようにされることを喜ぶはずだ」と信じて、相手に対する態度を決めるのです。
例えば、自分が気難しい人が苦手なら、相手の人も気難しい人が苦手だと考え、相手に気難しい態度を取らない。自分のことをあれこれ言いふらされたくないなら、自分も人のことを言いふらさない。それだけです。実行に移してみると、主イエスの教えはとても単純でした。
ところが、主イエスの話はここで終わりません。何故なら、黄金律には「これこそ律法と預言者である」という注釈が加えられているからです。「これこそ律法と預言者である」とは、これが律法や預言者が教えていることの中身なのだ、という意味です。
律法の存在意義は、我々がそれを実行する処にあるなら、多くの人は胸を張って「自分は人殺しも泥棒もしていない。他人の妻など寝取ったことは無い。親の生活も支援している。だから自分は律法を守っている」と言うと思います。ところが主イエスは「それでは規則の精神や目的が抜け落ちている」と言われるのです。
では、神が律法を通して我々に身に付けさせたかったこととは何か?それは、私たちが互いに愛し合うことです。だから主なる神は「自分を愛するように隣人を愛しなさい-自分の命を大切に扱うように他人の命を大切に扱えばその人を理解出来るようになり、その人の幸福を求めるようになる」と教えられたのです。
律法の細かい規定は、中心にある愛の精神を思い起こさせるための道具にすぎません。けれど人々は道具に目を奪われ、中心見失っていました。だから主イエスは「これこそ律法と預言者である」と言われたのです。
さて、我々の社会で黄金律は大切にされているでしょうか。私にはこの世が黄金律をうっとうしく思っているように見えます。
黄金律をうっとうしく思う理由その1。人間が律法を憎み、神を憎んでいるからです。主は「隣人を自分自身のように愛せ」と言われました。それに対して人は答えます。「自分を大切に思うから、他人など愛せない」。朝から晩まで自分の心地良さを求めていれば、他人のことなど考える余地はありません。けれど、他人を愛せないような自分の愛し方は、本当の愛ではありません。
黄金律をうっとうしく思う理由その2。出発点を神様に置くことを忘れているからです。人間にとって何より大切なのは、自分の命をこの世に送り出してくださった神の思いを知ることです。世界を造られた神が、御自分が造った我々人間と共に居てくださることに集中すれば、神に背いていて神の前に立つに相応しくない自分に気付くはずです。すると、自分の周囲にいる人たちが、自分と同じようにこの世の力に支配されていて、このひどい状況から抜け出したいのに自分では何も出来なくて苦しんでいると、分かって来ます。これが分かれば、行くべき道は唯一つ。救いに預るために一緒にイエス・キリストのもとに走り寄るのみです。救いの恵みに預かれば一緒に喜びたいと思う。黄金律と呼ばれるこの教えが力を振るうのは、まさにこの時なのに!何故か、多くの人はそれを恐れるのです。
さて黄金律の働きについて是非お話ししておかなければいけないこと。それは「神は決して私たちをその価値に従ってあしらわれない」と、黄金律が気付かせてくれることです。主イエスは「神は私たちが悪者だと分かっているのに、私たちに良いものをくださる」と言っておられます。神が私たちの現実そって報いるなら、罰しかありません。ところが神は、愛に溢れる態度で私たちを恵みで満たそうとしてくださるのです。だから主イエスは「あなたがたも仲間に対して同じようにしなさい」と言われます。「他人をいやな人、不親切な人、ひどい人と決め付けるな。その人に注がれ、その人の命を支えている神の愛を見なさい。それはあなたに注がれている愛だ」。そう言っておられます。
主は、この黄金律がこの世に起こってくる様々な問題を解決する唯一の道だと教え、従うように呼びかけておられます。そのためには、キリスト者として「だれをも肉に従って知ろうと(Ⅱコリ5:16)」せず、全ての人に注がれている神の愛に注目する生き方を身につけてゆきたいと願います。