本日の聖書個所は「「断食」についての主イエスの教えです。
自分より弱い立場にある人々との交わりを支える「施し」。神様と自分との交わりを固くする「祈り」。そして自分自身との交わりを整えるための「断食」。これはイスラエルの信仰の系譜に属する者にとって信仰生活の土台です。私たちキリスト教徒もイスラエルの信仰を受け継ぐ者として「施しや祈り」はとても大切にしています。ただ、「断食」については教会で話題になることはほとんどありません。
断食が軽視されるようになった原因は宗教改革にあります。宗教改革運動の中で、プロテスタント教会はローマ・カトリック教会の信仰を歪ませた原因と見なされるものをどんどん捨てて行きました。対立抗争の中で行っていたため、その価値が十分に考慮されないまま断食も捨てられたのです。
旧約聖書を調べると、レビ記でイスラエルは年1回、贖いの日に罪の悔い改めの儀式に備えて断食すべしと命じられています(16:29-)。この断食の定めは、神が直接イスラエル民族とその構成員に与えた唯一の断食命令で、永久的に拘束力のある規定でした。
ところが新約聖書の時代になると、ファリサイ派の人々は週に2回も断食をしています(ルカ18:12)。しかも彼らは週2回の断食を、神様が命じていないにも拘らず正しい信仰生活に欠くことが出来ないこととして扱っています。彼らは個人的に聖書以上に先走っただけでなく、それを一般民衆にも押しつけようとしていたのです。
では主イエスはどうであったかと言うと、主イエスご自身は直接的な表現で断食を教えることをされていません。けれど、間接的表現で教えておられる個所が1個所ありました。それがマタイによる福音書9章(14-15)にある「断食についての問答」です。
「9:14 そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、『わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか』と言った。9:15 イエスは言われた。『花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる』」。ただこの教えは、断食しない弟子を擁護しているための言葉で、断食そのものについての教えとは言えません。それでも主イエスご自身、宣教活動に入る前に40日40夜断食なさっておられるので、主イエスが断食を有益なものだと認めておられるのは確かです。では、主イエスの言葉と行動を通して見えてくる断食の目的とは何でしょう。私は「特別な理由、あるいは特定の霊的な目的のために食べ物をとらないこと」だと思います。
主イエスが偽善者のようであってはならないと言われるように、断食にも正しい断食と間違った断食があります。例えば「水曜と土曜は断食日」というように機械的に断食すべきではないでしょう。また「聖書で勧められているから」と言って、断食のために断食を行うのも間違っています。それらの方法は断食がもっている意義を失わせてしまうばかりです。
こうして話して来ると、断食が祈りに似ていることに気付きます。祈りの時間を定めたり、「必ず2時間は祈る」と決めたりしてノルマを課す祈りは、本来の祈りの在り方に反します。規則や決まりで自分を縛っては、キリスト・イエスが成し遂げてくださった解放を味わうことができないからです。私たちキリスト者は信仰の成長が求められているので、信仰の訓練として食生活の管理を捉えることも出来るでしょう。けれど断食は訓練の道具ではありません。聖書の教える断食は訓練とは異なった領域に属するものです。
また断食は、神の祝福を直接的に得る手段でもありません。昔「断食を通して聖霊体験をしたという証しを羨ましく聞いた」と言っている方がいました。でも「断食をしたから恵みがいただけた」などという言葉に紛らわされないでください。断食の解説書を読むと「断食を始めて5日目が過ぎた頃、異常に精神が澄み切った期間が来る。それを霊的な働きと誤解してしまう人がいる」とありました。科学的に説明できるものを霊的と解釈するのはキリストの目的を傷つけることだということは是非覚えておいてください。
そこで正しい断食に移ります。正しい断食とは神の聖霊の導きを感じた時に行う断食です。食事を断った状態で礼拝する特別な必要があると聖霊に示されたときに断食すべきだといっても良いでしょう。もし断食を始めたなら、自分が断食していることを人々に気付かれないようにしなければなりません。施しや祈りのときと同じように、いつもと同じ生活態度を通す。主イエスの原則「他人の目を忘れ、自分自身を忘れる」生き方に基づいた態度です。それがキリスト者の生活全体を覆う原則だと言っても良いでしょう。
キリスト者にとっての最大関心事。それは主の御名に栄光を期すこと、神様に喜んでいただくことです。それが私たちの性根に座っていれば、どんな断食が御心に適っているか悩むこともなくなります。本気で自分を主に捧げていたなら不安も消え、相応しい道が開けます。主イエスが「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」と言われるように、全てを神の栄光のために行う人への神の報いは既に確保されているからです。
「施し・祈り・断食」この3つを「キリスト者の3大徳目」と呼んだ人がいました。けれどキリスト教の徳目は道徳と違って、行えば良いというものではありません。あくまでも私たちが神様と正しい関係にあることが前提です。一日24時間、神様が喜んでくださることを願って全てを行っていることが前提です。もし、そのこと集中できているなら、他のこと主が心配してくださいます。
本当に不思議なのですが、神に栄光を帰すことを願い続けていると、神の報いを期待しなくなります。神に栄光を帰すことが出来ることが神様からの恵みに感じられるようになり、感謝が湧いて来るからです。するとある日突然、神様が「この日」と定められたそのとき、法外な報いが与えられます。神様の約束は決して空しくなりません。
この世は、私たちがこの世に迎合するときだけ私たちを愛し、笑いかけます。ところが私たちが人生をかけて主に従うと、この世は私たちの存在を否定しにかかって来ます。けれど私たちを見守ってくださっている主は、知ってくださっています。世界の最後の日が来たなら「隠れたことを見ておられるあなたの父が報必ずいてくださる」の約束通りに、主ご自身が世々の聖徒たちの働きの全てを明らかにしてくださるのです。
2017.12