山の上でこれまで弟子たちに向かって語られた主イエスの言葉(5:3~16)を簡単にまとめるとこうなります。
「あなたたちキリスト者は神の民・天国の市民です。だから、あなたたちの特徴である心の貧しさや義への飢え渇きが他の人に分かるように生活しなさい。他の人々の心が神へ向かい、神に栄光を帰す者へとなるために、神の栄光をあらわしなさい」。では何を大切に生活すると神に栄光を帰すことが出来るのか。その答えを一言で言うなら「正しくあれ」です。それは本日の聖書個所5章17節から20節を序論として、山上の説教の残りの部分のテーマが「正しい生活」だからです。
主イエスは17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである=私イエスが教えようとしていることは旧約聖書全体の教えに基づいている。旧約聖書と矛盾するところはない」と言われています。主イエスがそう言われたのは、主イエスの教えが律法学者やファリサイ派の人々の教えと一致しないからです。
宣教活動を始められた主イエスは神の愛について新しい教えを積極的に語るだけでなく、取税人や罪人と食事まで一緒にしています。「それは律法破りじゃないのか。聖書を否定することではないのか。それとも神のみもとにいく新しい道があるのか」。人々の間に主イエスに対する戸惑いや疑問が広まって行きました。人々の心の動きをご存じの主イエスは、弟子たちがこうした主イエスのうわさや批判を聞いて混乱することがないよう、信仰生活の根本語られます。
ある研究者は、主イエスは旧約聖書のほとんどすべての個所から引用しておられる、と言っています。実際、主イエスの生涯は律法と預言者の書で語られていることを文字通り実行された生涯でした。だから「完成するために私は来た」と言われるのです。
当時の律法は「道徳の律法・犯罪を規定し罰する法律としての律法・礼拝儀式に関する律法」の3つの部分から成り立っていました。主イエスが十字架で死なれたとき、その大祭司だけが入ることが許された部屋の入り口の垂れ幕が二つに裂かれた神殿は、その後ローマ軍によって破壊されました。それはイエス・キリストによって儀式律法が成就されたことを明らかにしています。また復活の主イエスを頭とする新しいイスラエル・教会が生まれたことで、法律としての律法もキリストによって成就しました。残るのは道徳律法です。
主イエスは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また隣人を自分のように愛しなさい (マタイ22:37.39) 」と教え、道徳律法の全てを見出すことが出来る一つの律法を示されました。ただこの律法は他の二つと違って、全人類に向かって語られたので異邦人とユダヤ人の区別もなく、期限もないので永久不滅の掟・今も有効な掟です。そこで、神の国が完成され律法と預言者が一点一画残さず完全に実現されたときには、律法を破った者はキリスト者であっても有罪判決を受けます。イエス・キリストの出来事を通して示された神の愛を受け入れない者、悔い改めない者は、律法によって裁かれ、有罪宣告を下されるのです。
パウロがコリントの信徒への手紙Ⅱの最初で「神の約束は、ことごとくこの方(主イエス)において『然り』となったからです」(1:20)と言っています。それは「預言者の書と道徳・法律・儀式に係わる全ての律法が主イエスを指し示している、イエス・キリストにおいて律法と預言者が頂点に達する、キリストは律法と預言者の成就だ」ということです。主イエスにとって旧約聖書は神の言葉でした。御子キリストご自身が「それを成就し実現されるために来た」と言われたその言葉を知っていたからこそ、初代教会の人々はパウロたちの手紙や福音書を旧約聖書と結びつけたのです。
またパウロはローマの信徒への手紙の8章でこう言います。「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです(2-3)」。ここでパウロは、主イエスご自身が律法を成就した方法と、主イエスが私たちにおいて律法を成就する方法を結び付けています。生まれつきの人は神を憎み神に背きますが、聖霊を頂いている人はキリスト・イエスが神を愛されたように神を愛したいと願い、キリスト・イエスが人を愛してくださったように人を愛したいと願います。つまり、律法に従いたいと願うのです。そして聖霊は律法に従う力を私たちに与えられています。「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした(8:4)」とある通りです。
ただキリスト者は、神様との契約関係という形では律法の下にはいません。イエス・キリストの出来事によって「救われるために律法を守る必要がなくなっています。そう言う意味では律法から解放されています。けれどそれは、生活規範としての律法から解放されたという意味ではありません。何故なら、恵みの目的には、私たちが律法を守れるようにすることも含まれているからです。律法学者たちと同じに律法を守れる人間、神様を愛し隣人を愛せる人間にするために、私たちを聖霊の力が満たしてくれているのです。
気になるのは主イエスが弟子たちに向かって「律法学者に勝る義を持て」と言われていることです。これは、律法学者たちと同じ程度の律法の守り方では足りないということなのでしょうか。でも「律法学者に負けないように!」なんて頑張ったら、主イエスから「偽善者」と非難されると私は思います。では何をどう気をつけたら、そうならないで済むのか。注意して福音書を読み直すと、主イエスは彼らの外面的・形式的な信仰態度を攻撃していることに気付きます。
宗教の定義に「宗教とは、人が自分ひとりでいるときに行っていることである」というのがあります。人間の心の奥にあるものが表れるのは人が一人になった時だ。だからその時、熱心にやっていること、愛しんでいるもの、それがその人が信じているものだという訳です。こうしたこと聞くと、パウロの「正しい者はいない。一人もいない(ロマ3:10)」という言葉がイヤでも浮かんできます。
主イエスは、キリスト者とは福音のメッセージを生きている人だと言われました。キリスト者は「義に飢え渇く者」「心の貧しい人」キリストのようになりたいと切に願う者だから、「柔和な人」であり「憐れみ深い人」だと定義されました。
キリスト者は「この自分が赦されるために、神様は独り子をこの世に遣わし、あのゴルゴダの十字架で死なせてくださった」ことを知っています。だからキリスト者は、神に愛されている自分であることを大切にし、自分が立派になることよりも神を愛し、神に栄光を帰すこと・主イエスが教えてくださった掟を守ることを望みます。出来るか出来ないかを考えて躊躇するのではなく、隣人を愛そうと望み、愛させてくださいと祈って隣人の許へ向かうのです。
「人間には無理だと思えることであっても、主が「そのように行え」と命じられたなら、それは「なる」。信じてやってごらん」。先輩牧師の言葉です。主と共に隣人を愛する者として生かされていることをもう一度心に刻み、生活の場へと送りだされてまいりましょう。
2017.3