「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」と言われている悲しみを文字どおりに取ると、喪に服している人々の悲しみだということです。
「死が戸を叩き不幸が家族を襲うとき、それとは全く違う神の支配による幸いが戸口に立っている。愛する者の死によって心を抑えつけられるような苦しみに遭い心に傷を負った人を用いて、主は御自身のお力を表そうとされている」。主イエスは、この祝福の言葉を通してそう言われます。
旧約聖書も新約聖書も、愛する者の死が人々に悲しみと嘆きをもたらす重大事だと知っています。例えば旧約聖書は、悲しみは無理に抑えずそのままにしておきなさい、生ける神が悲しむ者に慰めを与えてくださると記します。新約聖書も死が与える傷の深刻さを記しています。ただ新約聖書で生ける神はイエス・キリストにおいて慰めをお与えになります。主イエスは十字架と復活を通して死に勝利され、御自身が生と死を支配する主であることを明らかにされました。たった一人の復活であっても主イエスの復活は、キリスト・イエスにあって生き、キリスト・イエスにあって死んだ全ての人が終わりの日に復活させていただける印です。神の国の完成の先触れであり、死に対する完全な勝利を知らせる先触れです。神の国の完成の時から歴史を振り返るなら、イースターはキリストの再臨の始まりの日になるのではないでしょうか。こうして「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」という言葉は、死を悲しむ人々に対してだけでなく、霊において悲しむ人々に対する言葉へと広がって行ったのでした。
さて、必ず弟子たちを迎えに来ると約束してくださった主イエスは天に昇られました。けれど、主イエスは御自身の死が目の前に迫って来ている中で、「わたし達といつも一緒にいる」という約束を守るために、御自分の代わりに聖霊を送ってくださると約束してくださいました。だからわたし達は、空しくキリストの再臨を待っているのではありません。聖霊と共に生きているからです。パウロはローマの信徒への手紙で「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊” が神の霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです(8:26)」と言っている通りです。聖霊なる神は自らとりなしの祈りを祈るだけでなく、今この時も喜んで悲しむ人々を弱さの中から助け出し、慰めを与えてくださっています。「あなたは神様に愛されている。大切な神の子なのだ」。聖霊はその力を持っておられますし、そうしてくださるのです。
けれど、神の慰めを受けるためには悔い改めが必要です。悔い改めがなければ、わたし達人間は神の愛に気付けないからです。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている(ロマ7:18-19)」。自らのみじめさを嘆いてこう言ったとき、パウロはまさに悲しむ人でした。この悲しみは、神の前に立って自分自身の心を覗き、その貧しさを知った者が知る悲しみです。聖さ・正義・愛、全てにおいて欠けだらけの自分に気付いた者が知る悲しみです。完全な方である神様の前に立ち、神様が与えてくださった使命に生きてきたはずの自分のこれまでを思いめぐらすとき、わたし達は自分の惨めな霊性に絶望し悲しみの淵に落ち込まざるを得ません。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか(ロマ7:24)」。これはパウロ一人の嘆きではありません。わたし達信仰者全ての嘆きです。
けれどそこで「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします(ロマ7:25)」という言葉が飛び出すのがパウロの凄いところです。慰め主である聖霊と、イエス・キリストと、父なる神に絶対的な信頼を置いていたパウロだからこそ言えた言葉です。
最後にもう一つ。わたし達が慰めを受けるのは自分一人のためではありません。わたし達が頂いた慰めを悲しんでいる隣人のところへ運ぶためです。わたしはお見舞いやお悔やみに行くと必ず、自分の無力・無能にがっかりさせられます。それは、どんなに努力しても人間の慰めの業には限界があるから、そして悲しみにはその本人にしか分からない部分があるからです。ではどうすれば良いのか。イエス・キリストが勝利者であることを信じ、祈りをもって神様から頂いた慰めを届ける。そして悲しむ者と共に待つことです。相応しい時に、相応しい方法で、相応しい慰めを神様が与えてくださることを信じ待つ。これだけです。
聖霊なる神を信じて悲しむ者は幸いです。その人は滅びることが無いからです。
2016.4