神様は「霊・魂・体」を人間に備えてくださいました。まず造り主なる神を知る力の源となる霊。人は霊的な知性によって物事を受け留め、理解します。次に神に造られたと知って喜ぶ力の源となる魂。人は喜んだり悲しんだりすることを通して魂・心で納得します。最後は造り主である神を崇める行動を起こさせる力の源となる体。霊と魂で受け留め納得した結果を、体を使って表現したり実行に移すのです。ところが、罪の結果その順番と均衡が壊れ、この3つが正しく働かなくなってしまいました。「霊・魂・体」が欲望や情や肉欲に支配される状態に変わったためです。心や感情や体の存在それ自体が悪いのではありません。問題は人間が欲や情や肉に支配されることです。だから主イエスは言われます。「あなたがたは地上に富を積んではならない。…あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」「だれも、二人の主人に仕えることはできない。…あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。
まず第1に罪は秩序を覆します。最大・最高の神様からの賜物を下の順位のものに従属させてしまうのです。旧約の詩人は「神を知らぬ者は心に言う。『神などいない』と(詩14:1)」と歌いました。「神などいない」と言うのはその心が罪で歪み偏見を持ってしまっているからです。彼らはその偏見を正当化するために理屈を探します。事実を自分に都合よく歪めても気付けないほど知性をねじ伏せるのです。「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」とは、この事です。
罪のもたらす第2の結果は判断力を失わせることです。例えば、人間の容姿も金銭も社会的立場も永遠ではありません。どんなに努力しても人は老いや病気から逃げ切れません。お金も同じです。どれほど多くの財産を持っていても死後の世界には持って行けません。死ぬときにはそれらの全てを手放さなければならないのです。
ところが、それを知っているはずの私達がその事実を意識して生活しているかと言えば「ノー」なのです。そうでない方もおられるでしょうが、ほとんど人はついつい目先のことに囚われ、神よりも自分のために生きることを選んでしまいます。そしてそれは、判断力が働いていないしるしです。
判断力を失わせるもう一つの原因は、「自分は中立だ」という思い込みです。哲学者のアリストテレスは「二つの全く相反するものの間に中間はない」と言いました。光と闇を混ぜると光でも闇でもないものがあるだけで、中間と呼べるものは出てきません。神と富もそうです。両方共が私たちに絶対服従を要求します。私たちは「一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか」どちらかを選ぶしか出来ないのです。これは個人だけでなく教会も同じです。一たび教会とこの世との区別が見失われれば即、教会はキリスト教会でなくなります。感謝すべきことに、何時の時代にもこの真理を自覚して妥協を拒絶する人が興され教会は守られて来ました。どんなに有効に見えても、この世的なものを持ち込んだ教会が改善されることがないことを、繰り返し思い出したいと思います。
ちょっと油断すると必ず人間はこの世の奴隷になり下がります。私たちが情や欲によって判断力を失うと、人間が道具とすべきものが人間の主人になり、遂には真実の神に変わって私たちの神となってしまう。神様の祝福をいただくことが出来ないように人を不健康にする。それが罪のなせる業です。
さて罪の第3の面。罪が人間にもたらす最後のものは、人間を滅ぼし尽くす力です。もし地上に富を蓄えるために全ての時間を費やしたなら、人は最後に何も持っていない自分自身を発見することになります。今この瞬間、生活の中で実際に大切にしているものを思い浮かべてみてください。どれだけ死後の世界に持っていけるのでしょう。罪は終わりの日に、何一つ持たない裸の姿にして私たちを投げ出します。そうならないために主イエスは語ってくださっています。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」。体の灯りとは神様が一人ひとりの人間に与えてくださった霊の力です。それを欲と情と肉の支配に任せてしまったら、その暗さはどんなでしょう。それなのに私たちは「人間は考える葦である」などと言って自分の知性を頼り、罪のゆえに自分自身が覆されていることに気付けません。そして突然、自分が頼りにしていたものが光ではなく闇であることを知るのです。主イエスは「金持ちとラザロ(ルカ16章)」のたとえ話でそれを教えておられます。
「金持ちとラザロ」の金持ちは、自分が死んで陰府に居るとに気付いたとき自分の愚かさを悟ります。炎の中で身もだえしなければならないのは、悪魔の誘惑に乗り神を否定した結果だと知ったのです。そこで彼は天使たちと一緒にいるアブラハムに、自分と同じ人生を歩んでいる地上の兄弟たちの所へ使いをやってくださいと頼みます。しかしアブラハムの返事は「今、預言者たちの教えに真剣に向かい合わないなら、死者の中から生き返る者があっても、その人の言うことなどきかないだろう」と厳しいものでした。
キリスト教信仰は人の心を操る魔術でも麻薬でもありません。主イエスが教えてくださった神の教えを受け入れ、神の真実に服従することです。神に捕らえられた人々が伝える教えを聞いた人が、神の真理を霊的な知性で受け留め、喜び、信じ、実行に移します。これが回心です。それは聖霊が霊的な知性を鋭くして神の真理を受け入れられるように私達を整えてくださった結果です。聖霊によって闇のゆがみから解放され自由になった霊的な知性は真理を愛し、自分を支配してくださる神の真理を待ち望むようになるのです。
「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。これは、この世で死ぬまで神に仕えていた人は死の彼方においても神の愛の下にあるということです。それに対して、死ぬまで富に仕えていた人は死の彼方でも神の愛の外に居ることになります。富は死の彼方まで着いて来ません。そこで死ぬまで富に仕えていた人が死後に行くのは、神と交わりを持つことが出来ない場所、神が赤の他人となる場所、闇です。
だから聖霊は私たちに罪とけがれからの解放の道を示し、新しい命を与えようと働き、私たちに神を愛し神にのみ仕える道を示してくれるのです。罪についての真理とキリストの血による救いの道を信仰の目でしっかり見極めるために、自分を神に委ねるために聖霊を祈り求めたいと願います。
2018.1