山上の説教は主イエスが弟子 (キリスト者) たちに向かって話された教えです。この箇所を読むと、主イエスが心を砕いて、イエスの弟子として生きる人を育てておられる様子が伝わってきます。
さて6章で主イエスは、1節から18節で、神との特別な交わりに入れていただいている神の国の民、神の子としての生き方を、19節から34節までで人間生活一般とのかかわりにおけるキリスト者の在り方を語られます。教会は主イエス・キリストの体です。弟子たちに対する主イエスの要求が厳しいのは、教会の命運が弟子たち一人ひとりの生き方にかかっているからです。キリストの弟子として忠実に生きるために、しっかり主イエスの教えに聞いてまいりましょう。
6章は「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」と言う言葉で始まります。けれど5章16節には「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」とあります。これだと正反対の事を同時にしなければならないように見えます。ところが、そうではないのです。
善は行うべきです。けれど、自分が注目されるような方法ではなく、神様が注目されるようにしなさい。主イエスはそう言われています。何故か。ここで重要なのは、それが自分を喜ばせるか神を喜ばせるかの選択だからです。
この箇所を読むと、私はいつもある先輩を思い出します。学生時代、献血を済ませた先輩が暗い顔をしているので、献血で体調が悪くなったのかと心配して声をかけたら、「献血をして、満足している自分がいやなだけだ」と言われました。「この献血で他人が喜ぶことがうれしいのではなく、献血で他人を喜ばすことが出来る自分を誇らしく思ってしまう。自己満足の罪、自己中心の罪を犯している自分がいやだ」という訳です。「自分がしなければならないのは神に栄光を帰すことなのに、また自分の栄光を求めてしまった。自分も主イエスのように神の栄光を表す生涯を送りたいのに」と思って、先輩は悔しくて仕方なかったのです。
詩編139編の詩人は言います。「どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうともあなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる(7-10)」。この詩には、共に居てくださる神の存在は私たちにとって喜びであるという確信が溢れています。神様の視線をこんな風に感じられれば、神をだますことは出来ないし、だましたくないと思います。すると自分に栄光を帰すために善行を利用する罪などは行いませんから、神の報いは恐ろしくなくなる筈です。
善行を行ったことで人から褒められると言う報いを受けてしまったら、神様からは何も頂けません。それが、その人が手に入れられる全てだからです。
主イエスは具体的な例として施しを挙げ、誤った施しは、自分のやったことを言いふらし、自分に注目させることだと言っておられます。ところが、ある人は言います。「私は自分の施しを誇るつもりは全くありません。けれど、私が信仰者の善行について語らなかったら人々は何も知らないままになってしまい、神に栄光を帰すことが出来ません」。それに対して主イエスは「どんな形であろうと自分の施しを他人に言ってはならない」と言われます。それどころか「知り合いと会ったら挨拶するように、施しも日常生活の中の当たり前の行動だと思いなさい。それが出来ないなら、施したことを忘れなさい」とまで言われます。それは、自分が行った施しを他人に言わなくても、「施しを言いふらすような信仰者でないことを感謝します」と祈るという方法によって自分を自分で自慢する可能性があるからです。自分に向かって自分を注目するように働きかける。ほんのちょっとの施しをしただけで自分って偉いと思いこみ、神様に動かされ、聖霊に導かれていたからこそ施しが出来たことを忘れてしまう。それほど私たち人間の自己顕示欲は強いのです。しかも私たちは、自分を神の座に置くほど強い自己顕示欲を持っていることを理解していません。だから、自分の栄光のことばかり気にして時を過ごすようになるのです。そんな危うい私たちを心配して厳しく語られる主イエスに感謝です。
では主イエスの言われるように「右の手のすることを左の手に知らせない」ためにはどうすれば良いのでしょう。神様への愛に没頭するだけです。十字架の上で死んでくださったイエス・キリストを見つめ、主イエスが私たちのために何をしてくださったか、主イエスを通して神が何をしてくださったかを考え、思い描くのです。
そうすれば。「あなたたちが自分で善行を記録に残すことを止めるなら、神様がそれをしてくださる。そして公に報いてくださる。自分がした施しを全て忘れ、ただ神を喜ばせることだけを考えて生活したら、自分たちがした施しとも言えない最も小さな善行さえ神様が覚えておられ、記録してくださっていたことに驚く時が来る」と主イエスは言われます。
マタイによる福音書の25章(34-40)で主イエスは、人の子が栄光の座に就き世界の人々を裁く場面を説明して、こう言われています。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』」。
すると王は答えます。もちろんあなたはしてくれた。あなたはそれを皆隠れて行った。それはこの書物に書いてある。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。だから今、わたしはあなたに公然と報いよう。良くやった、忠実な僕よ。わたしはあなたに向かって言おう。主人と一緒に喜んでくれと」。
何時も神様に見られていることを意識するだけで、私たちの生活は変わります。しかもそれを神様はものすごく喜んでくださっています。神様が報いを与えようと待っていてくださるその時を楽しみに、目の前におられる神様に喜んでいただけるよう、生活して行きたいと願います。
2017.5