神様が天地を創造なさったとき、神様はその全てをご覧になり「それは極めて良かった」と満足されました。けれど神様と喜びを分かち合う相手として選ばれたアダムとエバは神様に禁止されていた知恵の木の実を食べ、神様の信頼を裏切ってしまいます。神様は、自分で考え決断して、神様と一緒に生きることを選び取ることを願って人間を造られました。ところが、人間は神様より自分の欲望を優先させたのです。アダムたちが、神様との約束を無視することが神様との関係を絶つという罪だと気付いたときは、遅すぎました。二人は神様と暮らした園から追い出されただけでなく、喜びであった労働や出産に苦しみが伴うようになったのです。
キリスト教では神様に背くことを罪と呼びますが、最初の人間が神に背いて自分の思いを優先させたため、人間は神様を求める心と自分を神の座に置きたい思いを二つ共に抱えて罪人となりました。それでも神様は、天地を造られた最初のように良いもので満たされた世界に回復させるご計画を立てられました。まず全ての人間を罪から解放するために、神様は多くの民族の中からイスラエルを選び出し神の民とします。取るに足りない一握りの民が、栄枯盛衰の激しい世界で滅びることなく生き続ける姿を世界に示すことによって、弱く小さな人間の命を惜しむ神様の愛を示そうとされたのです。また神様はモーセを通してイスラエルに十戒を与え、神の心を自分たちの心として生きるための道しるべとされたのです。
神の民イスラエルの歴史も自分中心と神中心の間を揺れながら進んでいます。困難が襲ってくると今までの生活を反省し「助けてください。これからは神様に従います。やもめや孤児を助けます。正しい商取引をします」と神様に願います。ところが、神様に助けられて困難が過ぎ去ると直ぐに神様に守られていることを忘れ、自分中心の生き方に戻ってしまうのです。神様は様々な機会を捉え、イスラエルと世界の人々に向かって命の源である神を自分の神としてあがめるように呼びかけますが、イスラエルは自分たちが招いた困難も神の罰のように考え、神を恐れるようになって行ったのです。そこで神様は、神の愛を信じきれないイスラエルに向かって「神は人々を罪から解放するために救い主キリストを送る」との約束をお与えになります。そして、自分の命を造り守ってくださる神と共に生きるときに人間の命が本当に輝くことを気付かせるために、神様は多くの預言者を用いて呼びかけ続けましたが、人々は神様の愛を正しく受け止められません。そこで遂に、神様は御自分の独り子をこの世に送る決心をされます。
天地創造の始めから神様と共におられ、神様と共に働いて来られた独り子なる神を人間としてこの世に送る決心をします。しかも神様は、世を照らす真の光であるにもかかわらず守り育てる人がいなければすぐにも死んでしまう無力な赤ちゃんとして御子をこの世に送ってくださいました。それがクリスマスの出来事です。
けれど世を救うには力が必要だと思い込んでいる人間たちは、この無力な幼子をキリストとは認めませんでした。天使の言葉通り「イエス」と名付けられた彼は神の国を述べ伝え、積極的に社会からはじき出されて苦しんでいる人たちの所へ向いました。汚い仕事だから、病気だから、年取っているから、生まれが悪いから、女だから、貧乏だから、外国人だから。時代や場所が違っても社会から軽んじられ、疎んじられる理由は変わりません。主イエスは自分ではどうにもならない理由で社会からはじき出され、悲しく悔しい思いをしている人たちのところへ出かけて行き、病気を癒し、教え、楽しく一緒に飲み食いをし、言葉と行いによって、神様の目には全ての人が尊いことを明らかにされたのです。
また主イエスは、自分の思いを遂げるために地位や権力を利用している人々を神に逆らう者と言って攻撃しました。そのために主イエスは権力に頼る者たちから憎まれ、罪が全くないにもかかわらず十字架刑にかけられて殺され、陰府にくだられます。主イエスは十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫んだと聖書は言います。これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言う意味です。
十字架上での主イエスの死は、当時の人たちにとって敗北者の死でした。歴史が始まって以来、主イエスのように無実の罪を着せられて見捨てられ、敗北者として死んで行く人が後を絶ちません。死ぬことはなくても、道理の通らない苦しみにあっている人も大勢います。けれど、負け犬として死んだこの主イエスの死によって世界は救われました。全ての人間が罪から自由にされたのです。主はご自分の死によって、神様には全ての人生に価値があり意味があることを明らかにされたからです。
死にいたるまで神様の心に忠実であった主イエスは、神様によって甦らされ、天に上げられます。復活の主イエスは天に上げられる前に弟子たちの前に現れ、世界の果てまで救いの喜びの知らせを伝えるように命じます。世の中が受け入れることを拒否され罪がないにもかかわらず十字架で死なれたイエスを、救い主キリストと信じる者は「神様のために働く者、神様と共に働く者」とされます。私たちが生きていること、それ自体が神様のために役立っているのだ、と主は言ってくださいます。そして私たちが「もう絶望だ」と思う場所には、「これで終わりではない。私があなたと共にいる」と言ってくださる主キリストが必ずいてくださいます。
残酷な十字架ですが、神様はこの十字架の故に私たちを罪のない者として扱ってくださいます。神に罰せられる恐怖がなくなって自分の現実と向かい合えたとき、私たちは神と人に対して犯した自分の罪を認めることが出来ます。そして自分の罪深さに気づいた人たちには、光を理解しない闇から抜け出すよう招いてくださっている主キリストが見えてくるのです。今までも見守ってくれていたし、最後まで見守り続けてくれる方であるキリスト・イエスが、はっきり見えてくるのです。
神様が造られた私たち全ての命を守るため。否、神様が造られた全ての命を輝かすため、神様は真の光である主キリストを送ってくださいました。そして主イエスは今も「どんなに爆音が響いても空騒ぎの笑い声が響いても、私があなたと一緒にその悩み苦しみを抱えて行くから大丈夫。失敗したら立ち上がらせてあげるから大丈夫。だから、あるがままの姿で来なさい」と言って招いておられます。
2017.11