教会は11月27日の日曜日からアドヴェント(待降節)に入り、教会の新しい一年が始まりました。ゲーム好きの若者にとっては、スマートフォンで遊べるゲームアプリですが、西方教会(ローマカトリック教会やプロテスタントの福音主義教会)にとっては、イエス・キリストの降誕を待ち望む季節です。
クリスマスにみんなで主の降誕をお祝いするため、アドヴェントの間に教会は様々な準備をします。アドヴェントにはクリスマスリースを玄関に飾り、アドベントクランツに4本のろうそくを立て日曜日ごとに火を灯す数を増やして行きます。今年は25日が日曜日なので、その前の週に4本目が灯っていますが、たいていの場合、4本目のろうそくが灯される日曜日の週にクリスマスを迎えます。
聖歌隊はクリスマスで歌う讃美歌の練習。婦人会は愛餐会の打ち合わせ。CSはページェントの練習と言うように、それぞれ具体的な準備をしながら心を落ち着け、心の中に主イエスを迎え入れる用意をして行きます。そこで用いられるのが紫の典礼色です。講壇や聖餐台、牧師のショールなどが一斉に紫に代わります。この色は高貴さと悔い改めを意味しますが、同時にイエス・キリストの十字架の御受難を意味しています。主イエスがこの世に来てくださったのは、神の御計画に従い御受難と言う形で私たちの罪を引き受けてくださるためであったと、感謝と懺悔の思いを持ちつつ、主のご降誕を待つ。そのための紫だと言うことを忘れてはなりません。
さてイエス・キリストの降誕・最初のクリスマスは今から2000年以上前、ローマ帝国の支配下にあったユダヤで起こりました。ナザレの村娘で12・3歳のマリアのもとに天使が訪れ、聖霊による受胎を告げたのです。聖書は、少女マリアが神に愛され、思慮深く、信仰深い乙女であったと伝えています。天使の言葉に驚き戸惑いながら、それでもマリアは自分の人生を神に捧げる決意をします。そしてその決意と感激の思いを「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう」と言って歌い出します。ルカによる福音書1章46節以下にある「マリアの賛歌」がこのときマリアが歌った唄で「マグニフィカート」と呼ばれています。
では、マリアがほめたたえた神とはどんな神であったのでしょうか?彼女の唄を聞くと、それが分かります。まずマリアは「その憐れみは代々に限りなく」と歌い、「憐れみをお忘れになりません」と歌います。「神の憐れみ」とは豊かな内容を持った重要な言葉です。神の愛・恵み・祝福など神が私たちに与えてくださる良きものの源と言って良いでしょう。
それではこの神は、この憐れみをもって私たちに何をしてくださるのでしょうか?マリアは神が「思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」と言っています。これでは、思い上がる者や富める者には徹底的に厳しく、身分の低い者や飢える者にはとても優しい、えこ贔屓な神に聞こえます。でも、マリアは本当にそんなことを言いたいのでしょうか?マリアは決してそんなことを言いたかったのではありません。
ルカによる福音書3章は洗礼者ヨハネの務めを「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る(ルカ3:4-6)」と言っています。平らでまっすぐな道を造るには、道を曲がらせている出っ張た山を削り、へっこんだ谷を埋める必要があります。社会もそれと同じです。富の差や権力の差や教育の差があっては、そこに住む人全員が共に生かされていることを喜ぶことはできません。だから神は、力を誇り周囲を見下している人々から力を奪ってその地位から引き下ろし、全く何の力も持たない人々の立場を高く上げ、平らにしようと働いてくださるのです。
人々を思いのままに動かせる権力を持っていた人がその権力を奪われたら、権力を恐れて従っていた人たちは皆その人から離れて行きます。それどころか、今まで無理やり従わされ、我慢させられて来たことの仕返しをするかもしれません。自分に対する人々の態度の変化で、権力を取り上げられた人はとても辛い思いをするはずです。好きな物を好きなだけ食べることの出来たお金持ちは、無一文になっても舌が美味しい味を覚えています。ですから貧しくても手に入る食糧を食べたとき、お腹の足しにはなりますが、舌はまずいと言って食べるのを嫌がるかもしれません。いやいや食べることになれば、貧しさへの嫌悪がどんどん増していくでしょう。彼らは、持てる物を取り上げられることで、初めて弱い立場の人や貧しい人々の苦しさ・辛さを知るのです。そこで、彼らが他人を踏み台に自分本位に生きていたことに気付いてくれることを、神は願っておられます。だから、彼らから権力や富を取り上げたのです。
社会全体として見れば、権力者も止める者もいない社会は豊かではないと思います。けれど、皆が弱さ貧しさを知っているので互いを思いやることが出来ます。昨日は隣から味噌を借りたけれど、今日は隣に醤油を貸す古典落語に出て来る長屋のように、信頼と安心のある社会です。神の目的は人々の罪に怒りを発し、厳しくさばくことだけではありません。神の最終目的は、全ての人が自分に注がれている神の愛を喜び、互いの存在を喜んで生きることです。そうした社会・そうした人間関係を生み出すため、この世界を救いうため、神は憐れみをもってある者には厳しく、ある者には優しくされるのです。
マリアは喜びと確信をもって神を称えます。
私の神は憐れみ深い!私の神は決して見捨てない!私の神は滅ぼしつくすことをなされない!しかも私の神の憐れみは永遠に尽きることが無く、主を恐れる全ての人に及ぶ!
イエス・キリストの十字架において、この神の尽きない憐れみと裁きの厳しさは私たちの救いのためであることが、これ以上ないほど明らかにされました。そして十字架で死に三日目に神よって甦らされたイエスをキリストと信じる全ての者に、その救いが約束されたのです。マリアと共にこの神を信頼し、祈りつつクリスマス準備を重ねて行きたいと願います。
2016.12