主の祈りは「御名を崇めさせたまえ」から始まります。御名を崇めるとは神を神として知り、畏れることです。神を神として知ることができたなら、人は自分の生と死の価値を知ります。だから、私たちが尊敬と怖れを持って神に近づくよう、主はこの祈りを第1の祈りとしてくださいました。
第2の祈りは「御国を来らせたまえ」です。「神の国の到来」を願うことは、神による統治を願うことであり、直接支配してくださる神を待ち望むことです。神が御子イエスをこの世に送ってくださったことによって神の国も同時に到来しました。主イエスご自身が「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ(マタイ12:28ルカ11:20)」と言っておられる通りです。すると神の国は、主を信じ主に従う全ての人の心と生活の中に今あるといえます。けれどそれは完成ではありません。だからパウロは「すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてをご自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです(コリントⅠ-15:28)」と言うのです。
第3の祈りは「御心の天になるように地にもならせたまえ」です。この地上が神の国となるためには、世界の隅々まで神の御心が行き渡る必要があります。この地上に神の国が実現したなら、世界中に神の御心が行き渡るはずです。であるなら、第3の祈りは第2の祈りと切り離せない祈りです。預言者は「天の万物は神の御心を行って神を褒め称えようと篤く望んでいる」と告げています。使徒たちは「キリスト者が御国の到来を望むなら、地上の全ての人が彼らと同じ思いを持つことを切望すべきだ」と言っています。この地上に神の国が確立されたなら、必ず神の御心が天で行われているように地にも行われます。邪悪は地から消え失せ、神の栄光が万物の上に輝くのです。
主の祈りがこれらの祈りから始まるということは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい(マタイ6:33)」と言われた主イエスが、全てのキリスト者の最高最大の願いが「神の栄光を求めること」であって欲しいと望んでおられたということです。
主の祈りについて思いを深めていくと、主の全ての弟子の信仰を守り育てるために配慮をしてくださっている主イエスの命がけの愛を感じます。正しく慈愛に満ちた父なる神を知ったなら!神に敵対する気持ちなど起こりようがありません。だから既に愛の神との交わりに加えられている私たちは、神の愛を知らない世界のため、愛の神に背を向けている人々のために「御心がこの地上に現れるよう」祈るのです。
2017.8