「心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る」
キリスト教信仰にとって心はその人そのものを表します。そして人には、善を愛し神を愛したいという思いと一緒に、悪を好み悪を為したいという思いもあるため、生まれながらに心の清い人はいません。
人間の現実を見据える聖書は、人間による最初の罪はエデンの園という完全に整った環境の中で行われたと告げ、ノアの家族を残して大洪水が地上のすべてを消し去った後に語られた神の言葉は「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ(創8:21)」といっています。聖書は、悪を生み出すのは環境や教育や社会制度ではなく人間それ自身であると言い切るのです。しかも人間は自分の中にある悪を追い出すことができません。そんな人間が「清い心」をもつ可能性があるのでしょうか。
そこで、話を進める前に「清い心」とはどういう状態か、少し考えてみたいと思います。
まず思い浮かぶのは、心に悪い考えが入っていない状態です。日本的な表現なら「陰ひなたの無い誠実さ」や「二心の無いひたむきな心」です。次は信仰的な汚れが無いという意味です。それは、誠実に神の教えを聞き、その教えに忠実に生きる心です。では、このように人と神に対して清い心を表すとしたらどうなるか。私は、それに相応しい方はイエス・キリストをおいて他にないと思います。神の愛を喜び、神を愛し、神に仕えることだけを願って生きられたイエス・キリスト。神の栄光を表すために生涯を用いられたイエス・キリストその方です。主イエスの清さは、罪を犯したことがなく、その口に何の偽りもない清さです。それはつまり、言葉においても行動においても思いにおいても罪の無いイエス・キリストに似た者だけが神を見るということです。 では、心に悪を抱える私たちが神を見るためには、どうしたら良いのか。
ちょっと話が変わるのですが、私は2013年に教会の方々と一緒に交流教会である韓国の春川中央長老教会を訪問しました。そのとき、四谷新生教会との交流の思い出を語る春川中央長老教会の方々の笑顔も素晴らしいものでしたが、春川中央長老教会との交流について話される四谷新生教会の教会員の笑顔も光っていました。それは「訪問出来てうれしい。訪問してくれてうれしい。一緒に礼拝出来てうれしい」と、神様が下さった恵み一つ一つの喜びを大切に喜んでおられる笑顔でした。また春川中央長老教会は司空(サゴン)牧師と教会員が一丸となって、世界各地の宣教師の支援や、一人暮らしの高齢者に語らいの場を提供するための昼食会を20年以上続けていると聞きました。
説教準備のために折に触れて「心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る」と口ずさんでいた私に、春川中央長老教会の方々が笑顔で神様を見上げている姿が突然思い浮かびました。そして、私たち全てのキリスト教徒には神を見るに至る道が開けていることに改めて気付かされたのです。
神に愛されていることを喜ぶ信仰と、主イエスのように神を愛し隣人を愛したいと願う祈りがある限り、全ての人に神を見る可能性が与えられています。この恵みに感謝し、祈りつつ聖霊なる神に自分を委ねてまいりましょう。
2016.8