「イエスがメシアか?そうでないか?」と疑いまどう民衆に向かって主イエスは大声で言われます。「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。7:29 わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである」。
ここに集っている人々は「自分たちは神のことを良く知っている」ことを誇り、自分たちが神に特別に選ばれた民であることを誇っているユダヤ人たちです。その人たちに向かって主イエスは「あなた方は神の御前にある真実の人間として、あるべき世界を作れていない。それは神を知らないから、真実を知らないからだ」と言われたのです。
主イエスの「あなた方は神を知らない」という言葉に怒ったのでしょう。人々はイエスを捕まえようとしますが、捕まえられません。聖書は「人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである」と言っています。神が「主イエスが御業を果たすべき時である」と定められたその時がまだ来ていなかったので、主イエスを捉えようとする人々の手をすり抜け、自由に進んで行かれます。それが祭司長たちを苛立たせ、主イエスを殺そうという殺意を強くさせて行くのです。
彼らは、イスラエルの中で自分たちが一番神について知っていると思っていました。事実、彼らは聖書をよく読み、歴代の律法学者たちによる聖書解釈についても詳しく知っていました。けれど、それらは知識です。残念なことに、彼らは体験として神を知っていなかった。頭の中では知っていても、心や体では知っていなかったのです。
主イエスが言われた「神を知る」というのは、神を体験することでした。けれど神は、自分から近づいて体験出来る方ではありません。神に捉えられるしかないのです。そして神を体験するとは、神の愛や恵みを体験することです。そこで、神について無知であると―神の愛を体験したことが無いと―イエスを殺します。神様が私たちのために主イエスを送ってくださったと言われても、その恵みの大きさを理解できないので「そんな人はいらない」となるからです。そして、神の愛が人となった主イエスを殺そうとする者は、神を信じていないので神を殺します。また主イエスの語られた言葉を無視することは主イエスの愛を殺すことなので、自分を殺し隣人を殺すことになるのです。
さて、この世に来られた主イエスは神の国を宣べ伝えられました。けれど一つの村全体を一度に悔い改めさせる、と言うようなことはなさっていません。ペトロの姑の病気を癒し、徴税人に呼びかけ、ニコデモと語り合う、というように一人一人の人と出会ってくださっています。何故なら、神の国の中心は人であって、国ではないからです。それに私たちが理解しようとすまいと、天地創造の初めからこの世は神の支配下にあるので、神様にとって国を大きくする必要がないからです。
そこで主イエスは「神が自分に注意を向けるはずがない」と、自分で自分をさげすみ、傷ついている人々の処へ積極的に出向き、親しく交わり、神の許へと招きました。彼らこそ神が共に歩みたいと願っている人々だと気付いて欲しかったから。彼らに喜んで神の民として生きて欲しかったからです。
国家のための国民でなく、ひとり一人の民の命を大切に神が、今年も新たに主イエスを私たちの心に送ってくださろうとしています。神を愛し、自分と同じように隣人を愛して生きられるよう、心を整えてクリスマスを待ちたいと願います。
2015.12