マタイによる福音書の5章11~12節は、3節から始まった「〇〇の人は幸い」という表現を用いて語られる最後の教えです。
今、主イエスは目の前にいる弟子たちを見つめ「さぁ、報いが用意されているのだから喜びの声をあげなさい」と促すように「あなたがたは幸いである」と語っておられます。
英国の児童文学者で聖公会の信徒であったC・S・ルイスは「報い」についてこんな風に言います。「それを得るためにする事柄と自然に結びつかず、そのことに伴うべきである願いとも異質であるような報いが存在する。貴族になりたいために、あるいは勲章を得たいために必死で戦う将軍は打算的である。しかしただ勝利を願って戦う場合はそうではない。勝利は戦いの正当な報いである。正当な報いは、単にその行動に添えられるだけでなく、達成された行動そのものが報いなのである」。C・S・ルイスは、「報い」には奪い取るようにして得る打算的な報いと、与えられて当然な正当な報いと2種類あるといっています。ただ人々の思いの中で「報い」と「打算」とが強く結びついてしまっているため、彼は「正しい報い」について丁寧に説明しなければなりませんでした。
主イエスは人々の中にあるそうした混乱や、この世的な考え方をよくご存じでした。だから主イエスは、「神の国の喩」として朝雇った農夫にも夕方雇った農夫にも同じ賃金を与えるブドウ園の主人の話 (マタイ20:1-16)、をし「人が神の報いを権利として要求できる」とするあらゆる考えを拒否されたのです。
こんな風に申し上げると、ある方に反論されました。「私は神様の報いが天に備えられていると知っています。けれど、それを子どもには言えません。もし、それを子どもに言ったら『お母さんは教会の中しか見ていない。そんな考えは現実の問題に目をつぶらせる麻薬と同じだ』と攻められます。それに社会運動は好きじゃありません」。これには困りました。何故なら、神の報いは地上的な報いと強く結ばれているからです。
主イエスは、最後の審判の喩えを用い「私が飢えているときに食べさせ、旅をしたときに宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれた」人々に神が報いられた話 (マタイ25:31-46) を通して、主に従って苦しんでいる者や悲しんでいる者のために労する人々に報いを約束されています。また3人の僕にそれぞれの力に見合ったタラントンを預けて旅に出た主人の喩(マタイ25:23)を用い、僕は主人の信頼に応えた報いとして褒美と一緒に今まで以上の責任を与えられることも教えておられます。
また主イエスは様々な喩を用いて「報いとは神の国であり、救いの現実であり、神との親しい交わりである」ことを明らかにしておられます。それを知ることで人々が豊かになるよう、主イエスは色々に表現を変えて話してくださいました。もっと言うなら、そのために神は人となってくださったのです。主イエスが再び来てくださると約束してくださったのも、私たちの受ける報いが大きなものになるためです。そして今、私たちは既に、聖霊を通して報いを受け取っています。
さて報いを約束してくださったとき何にも捕らわれずに自由にお語りになられたのと同じように、主イエスは何物にも捕らわれないやり方で迫害について予告なさいます。
ここで主イエスは、迫害される弟子たちを神から使信・メッセージを預かってしまったために苦しんだ古い契約の預言者たちに重ねます。主イエスの言葉の意味はこうです。「あなたたちが共に祈り、共に歌い、共に御言葉を聞くのは、神様が『神の名を告白する』ご自身の民を持ちたいと望まれたからだ。だからあなたたちは神キリスト者としての言葉を携え、神のためにこの世に立ち続けてくれるよね」。けれどこれは、イエスと一緒に生活していた弟子たちだけに言われているのではありません。この言葉を聞く全てのキリスト者たちへのメッセージです。
私たちが主イエスの言葉通りに、心貧しく・柔和で憐れみ深く・義に飢え渇き・平和を実現しようと働くなら、私たちは人々の笑い物とされ、愚か者とののしられ、仲間外れにあうでしょう。つまり、迫害は求めなくてもやって来ます。おのずと迫害されるのです。
山上の説教の中で、主イエスは悪に対して手向かうなと言っておられます。信仰の戦いは、敵を想定しその敵に向かって行われるものではありません。そして「迫害する者のために祈れ」には「彼らがあなた方の天の父の子となるためである」という言葉が続きます。それは、迫害する人々のためだけの言葉ではありません。迫害されている私たちが、福音は迫害する人々にも当てはまる真理であると知るためです。神の国は私たちのためだけのものでなく、彼らのためのものでもあることを、私たちが理解するためなのです。信仰の戦いは福音のための戦いです。だからこそ、私たちは迫害する人のために祈るのです。
また神様は!主イエスは!迫害されているとき「そこで喜べ、大いに喜べ」と言われます。私達に与えられている務めは、私たちを迫害する敵が神様と和解するチャンスをしっかり掴むように、と祈ることです。神様に反抗してやまない人たちが神様の傍らに住むようになるとしたら、主イエスの弟子である私達が死ななければならなくなっても、そこには大いなる喜びがあるはずです。だとしたら、迫害にあって怒り悲しんだり悔しがったりするのは、見るべき相手を間違っているか、向かっている方向が間違っている印です。もし敵の誰かが神様との和解に至れたら、それは私達にとって最大の報いであることをしっかり覚えなければなりません。
ここまでお話ししても、まだ「神の報い」について話しづらいと思われるなら、それはご自分が「キリストのために苦しむこと」について話しづらいと思っておられるのと同じだということに気づいていただきたいと思います。
「田舎司祭の日記」(ジョルジュ ベルナック)という本の中に、司祭たちが人々に信仰の話をした時、話の終わりには必ず「やがて始まる迫害について、そこで流される殉教の血について」の言及があったがそれも消えゆく習慣になっている、というような話が書かれています。第二次世界大戦が終わって70年近く経とうとする現代日本で「迫害に備えよ」と言っても実感が湧かないとは思います。けれど第二次世界大戦中には、この日本で殉教者が出ているのです。親の世代、あるいは祖父母の世代にとって迫害は現実の恐怖でした。子どもたちが迫害されることも迫害することも無いよう、その教えを真剣に子どもたちに伝え続けなければならない、と思っています。
キリスト者は、福音のために一つになって戦うよう召されています。主イエスは、迫害の苦しみのあるところに幸いがあると言われています。使徒言行録は、フィリポやステファノを通して迫害が伝道の前進の力となることを教えてくれています。迫害に追われつつ伝道する彼らの日々は「苦しみが生じるところには秘かであっても祝福も始まる」という喜びを証ししています。キリスト者には、祈りの戦いを通してこの世界が祝福を得るようになるという大いなる報いが用意されているのです。
私達を迫害する人のために祈りなさい。福音の報いを期待しなさい。あきらめずに求め続けなさい。この主イエスの前進命令をしっかり肝の据えるために繰り返し聖書を読み、御言葉を体に染み込ませたいと願います。
2017.1