2017年のイースター・復活祭は4月16日(日)で、神様が十字架で死んだ主イエスを甦らせてくださったことをお祝いします。キリスト教が大切にしている祝日は3つあるのですが、一般に知られているのはクリスマスでしょう。後の二つは、イースターと教会の誕生を記念するペンテコステです。
コリントの信徒への手紙Ⅰのなかで、パウロが「15:3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、15:5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」と言っている通り、イースターはキリスト教で最も古い祝日です。
主イエス十字架に架かったとき、パウロがエルサレムにいたかどうかは分かりません。けれど、ステファノがイエスはメシア・キリストであると証ししてユダヤ人たちの怒りを買い、石で打たれて殉教したときに、パウロがその場にいたと、使徒言行録は語っています。そうであるならば、パウロは「神様は、ユダヤの人々が十字架に付けて殺したイエスを復活させることによって、イスラエルだけでなく人類全てに救いをもたらしてくださった。このイエスこそ約束の救い主メシア・キリストであった」と言うステファノの証しは聴いていたはずです。
この宣教の言葉を聞いたとき、パウロはそんなはずはないと思いました。十字架に架けられた極悪人を神様が遣わした救い主だと言うのは神様を傷つけることで、ユダヤ教を憎んでいる人たちの仕業に違いない、と怒りました。ところが調べてみると、彼らは殺されることも恐れず、十字架にかかって死んだイエスこそキリストであると証し続けています。「彼らの言うことが本当なら、もしイエスがメシア・キリストであるなら何故、神様は救い主キリストを犯罪人として死なせたのか?」「木に架けられた人は呪われる、と聖書に書いてあるのに、十字架と言う木に架けられて死んだイエス様を神様が甦らせたのは何故か?」。幾つもの問いを抱えながら、イエスの弟子を捕まえ牢屋に入れようと動き回るパウロに神様が与えてくださった答えは、復活の主との出会いです。
復活の主に導かれ、パウロの信仰は深められました。よく「パウロの手紙は難しい。特にローマの信徒への手紙は難しい」と言う声を聞きます。新約聖書の記者たちは、それぞれ神様から示された信仰を言い表すために相応しい自分の言葉を捜し求め、書き残しました。汲んでも尽きない内容を持つパウロの表現には、パウロの信仰の深さだけでなく、律法を熱心に学んできたパウロの人柄が表れているのだと思います。だからと言って、伝えようとしているその信仰が新約聖書のほかの書簡とかけ離れていると言うのではありません。例えば本日の聖書箇所は、ルカによる福音書で言うなら放蕩息子のたとえ話の内容と同じであると言うことも出来るからです。
あるところに二人の兄弟がいました。真面目なお兄さんは、文句も言わずお父さんに協力して一家を支えるために働いていました。弟は、家の仕事が嫌いだったのか都会へのあこがれが強かったのか、家から出ることを望みます。弟は父親にねだって財産を分けてもらい、さっさと家を出て行きます。遠い町で弟はあっという間に持っていたお金を使い果たしてしまいます。お金がなくなるころ町を飢饉が襲い、弟は食べるものにも困るようになります。ひもじく誰からも相手にされない生活の中で、弟は父に対して取った自分の態度を後悔します。そして父に詫び、ただの雇い人として雇ってもらおうと父のもとに帰ります。すると父親は弟息子を叱るどころか大喜びして迎えたのです。ずっと父の側で働き通した忠実な兄のためにも作ったことのないご馳走を作り、大宴会を開いた、と言うのが放蕩息子の例え話です。
弟の立場になって考えてみてください。一緒に働いてくれるだろうと言う父親の期待を裏切り、父親が死んで初めてもらえることになる財産を無理やりもらって出て行った自分がぼろぼろになって戻ってきたのです。「それ見たことか」とあざけったり、怒って追い出されて当たり前でした。だから、せめて雇い人として置いてくださいと頼もうとしたのです。それなのに父親は一言もそれに触れず、ただ自分が帰ってきたことを喜んでくれ、大宴会の大ご馳走をしてくれました。お父さんは弟息子を全く罪無い者として扱い続けてくれたのです。弟は、お兄さんと一緒にお父さんを助けて一生懸命働こうと決心したことでしょう。実際、以前の弟のことを知っている人から見ると、その働きぶりは別人と思えるほど働いたに違いありません。
このようにルカによる福音書は、愛に溢れた父親が神で、罪を責められることなく自分を受け入れてくれた父の愛に触れた喜びから別人のようになった放蕩息子がキリスト教徒だと語ります。それに対してパウロは、キリスト教徒とは「新しい命に生きる」者であると表現するのです。ではどうすれば「新しい命」を身に着けられるのでしょう。パウロは新しい命は洗礼によって身に着けることが出来ると説明します。何故なら神は、私たちがリスト・イエスと結ばれたことを洗礼を通して明らかにしてくださるからです。
現在でもバプテスト教会では浸礼と言って、全身を水につかるかたちの洗礼を行なっていますが、初代教会の洗礼は総て浸礼でした。洗礼を受ける人は牧師と共に腰ほどまである水の中に立ちます。手を前で組むと牧師に身を委ねて後ろの倒れこむように水の中に沈みます。他人に身を預けることだけでも不安なのに、水の中に後ろ向きに倒れるのですから、怖くないはずがありません。パウロはそれを洗礼によって「キリストと共に罪に死ぬ」体験をするのだと受け取りました。そして牧師に支えられて身を起こし、水から上がってくることを「キリストと共に新しい命に生きる」と理解したのです。
罪に死ぬとは罪と縁を切ると言うことです。先ほど「キリストと共に罪に死ぬ」と言いました。これは一緒に同じことをする、と言う意味での共にではありません。人間は自分の力で罪と縁を切ることができない。そこで、わたしたち寄り添ってくださるキリストが罪との縁を切ってくださると言う意味での共にです。だからキリストと共にある新しい命には罪の陰がありません。父のもとで新しい人生を始めた放蕩息子に不平不満が存在しないように、キリストと共に生きるすべての信仰者にとって罪は無縁の存在なのです。
罪から解放された生き方とは神に向かって進んでいく生き方、神に近づいて行く生き方です。キリストと共に新しい命を生きるとは、わたしたちが新しい別の人間になることではありません。神に近づこうとする生き方です。
現代でも礼拝の中で十戒を唱える教会があります。それは、「あなたはわたしのほかに何ものも神としてはならない」で始る10の戒めが、これ以上なくはっきりと「神様に向かって生きる」とはどういうことかを教えてくれるからです。また十戒が、現実の自分が神の臨まれる姿から程遠いことを気付かせるからです。主イエスは律法全体を要約して「神を愛し、自分を愛するように隣人を愛しなさい」とおっしゃいました。この言葉も十戒と同じように「神に向かって生きる」生き方をわたしたちに教えると同時に、現実のわたしたちの罪深さを明らかにします。それでも、キリスト者たちは逃げることもあきらめることもしません。日々の祈りにおいて、また主日の礼拝の祈りにおいて神様に罪の赦しを請う祈りをし、神の憐れみを求めます。それは戒めを教えてくださった主イエスが、戒めを守りきれないわたしたちに向かって「そこにしか確かな助けはないのだから神に近づこう」と呼びかけてくださっているからです。そしてまたキリストが、わたしたちを神に向かって押し出すからです。
洗礼を受けてキリスト・イエスに結ばれた状態を「イエス・キリストの中に浸りきる」と説明した牧師がいました。イエス・キリストに浸りきっていると主イエスが動くように動かされるので、自分で行きたい方向に進めません。そこでパウロは「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このようにあなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」と一息で言うのです。
パウロは、神様から与えられた信仰を「キリスト・イエスに結ばれて神に対して生きなさい」と言い表しました。これを現代風に言い直すと「キリスト・イエスに結ばれて自己実現しなさい」となると思います。自己実現とは自分自身を生き切ることです。わたしたちは命の意味と使命を与えられ、神様によってこの世に送り出されました。そのわたしたちが自分自身を生き切るとは、神様からの使命を果たす生き方をすることであり、神様が望む生き方をすることです。罪から解き放たれたことを喜ぶ。それは罪深いわたしを憐れんでくださる神の愛を信じ、わたしを受け入れどっぷりと浸してくださる主キリストの恵みを信じ、傲慢や卑屈から解き放たれた生き方です。今年も主の復活を祝い、罪から自由にされた命を喜んで過ごしてまいりましょう。