パウロは手紙の中で、神の富の豊かさについて度々語ります。ローマの信徒への手紙の11章33節では「ああ、神の富と知恵と知識の何と深いことか」と感激さえしています。だからこそパウロは、自分たちが神に近いと思い込むことで簡単に神の豊かな富を忘れてしまう我々信仰者を嘆くのです。そしてパウロは、私たちが他人を裁くとき、神は自分と共にいて下さると思いこんでいるところに私たちの罪があると言います。
パウロは2章4節で我々が「神の豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじる」と言っています。神から私たちに向けられた「慈愛」は、私たちがこの世を生きて行く力です。神の「寛容」とは、神様が本来なら受け入れることが出来ない罪深い私を受け入れて下さっている、ということです。神の「忍耐」とは、私たちが何時の日か神様に向かって生きるようになることを信じて待ち続けて下さっている神の心です。自分の生きる根拠である神の御旨を軽んじる人は、生きる根拠を持たない人よりもっと悪い状況にあると言えます。
復活の主に出会うまで、パウロは自分が神の民ユダヤ人であることを自分の正しさの根拠にして生きて来ました。それが復活の主に捉えられ、初めて自分の義のみすぼらしさを知ります。それまでの自分が「反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者」であったことに気が付いたのです。
神様は党派心をお持ちになりません。人種や文化や貧富の差で色分けすることもなさいません。善人と悪人の区別さえなさらない。全てのものを等しく慈しんでくださり、全てのものを等しく受け入れ、全てのものに対して等しく忍耐してくださいます。神様はそうやって全ての者を見守りながら、全ての者に唯一つのことを求めておられます。それは「悔い改め」です。神様は、私たちを愛し、私たちが悔い改めることを祈って待っておられるのです。
聖書で言う悔い改めとは「方向転換・回心」です。「回心」は本来仏教用語だったそうで、にっちもさっちも行かない処から忽然と脱出することだと説明されていました。キリスト教の「回心」は、欲望を追い求めていた自分が、神様によって方向転換させられ神の国に向かって進み出すことを言います。そして、それを成し遂げるのが神の熱心です。イエス・キリストを地上に遣わし、十字架で死なせることを厭わない熱心。そのイエス・キリストを死から呼び起こし甦らせ、死の壁を打ち破る熱心。私たちの回心を生み出すのはこの神の熱心です。パウロはそれを4節で「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らない…のですか」と表現しています。
イエス・キリストの福音の豊かさに比べたら、これまで誇ってきた自分の義がいかに貧しかったかを突然理解する。気付いたら神様の前に身をかがめ、ひざまずいて祈っていた。そうしたことが起こるのです。そこで回心が起こったとき、自分の頑固さに自信のあった人や憐れみをさげすんでいた人は喜びいっぱい、悔しさちょっとの気持ちを込めて「神様に負けた」「神様に屈服させられた」と言ったりします。
回心が生み出す豊かさは、私たちが神に栄光を帰すことが出来るようになることで表れます。それは礼拝の度に方向転換をして完全に神に身を向け、自分に行われた神の業のすべてを感謝することから始まります。まず自分がイエス・キリストの栄光を受け、光の子として輝いていることを知って喜びます。次にイエス・キリストの光によって全てが照らし出され、全てが光となる時を期待して待つようになります。そして聖霊が私たちの頑なな心を砕き、イエス・キリストの似姿にしようと働いて下さっていることに感謝するようになるのです。その結果、イエス・キリストが教えて下さったように神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する人へと変えられて行くのです。回心が生み出す豊かさはいっぱいあって、切りがありません。
その中で、けっして言い忘れてはならないのは死ぬときにも私たちは神に栄光を帰すことが出来るということです。それは自分自身を神様に、イエス・キリストに向け続けることによって起こります。イエス・キリストを真摯に仰ぎ続ける中で、これまでの罪が神に背いて来た故であることを悟り、悔い、神様にお詫びできる自分に変えられ、死さえも主への感謝をもって迎えられるのです。
パウロが言うように、イエス・キリストを内に持つ私たちには「栄光と誉れと平和が」与えられています。「永遠の命」が与えられています。だからこそ神の豊かさの中で手を携えて生かされる恵みに感謝するだけでなく、なお善を行う者でありたいと願わないではいられません。イエス・キリストの体なる教会に連なることを誇るのではなく、神様に捉えられ変えられて行くことを喜びつつ主イエスの後に従う信仰を求めて行きたいと願います。
2016.1