「憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける」
ある学者が、「恵み」と比べると「憐れみ深い」の意味を良く理解できると言いました。「恵みは特に罪の中にいる人と関連があり、憐れみは特に悲惨の中にいる人と関連がある」からだそうです。私はこれを「恵みは罪全体を見るが、憐れみは罪の悲惨な結果を見る」と解釈しました。罪に苦しむ人に同情するだけでなく、罪の悲惨な状況からその人を助け出したいと思う。それが「憐れみ深さ」です。主イエスが話された喩え話を例に挙げるなら「善きサマリア人」(ルカ10:25-37)です。
「旅の途中で強盗に襲われ半死半生になっている人を見つけたサマリア人は彼に近寄り、傷の手当てをします。他の人は見て見ぬふりをして通り過ぎたのに、彼はけが人を宿屋まで運び、主人にお金まで預けて介抱を頼みます」。可哀想と思うだけでなくその痛み苦しみを取り去ってあげたいと願うのは、相手のために労苦を引き受ける意志の表れであると、主イエスは言われます。
そして最高に憐れみ深い例は、神様がその独り子をこの世に遣わしてくださったことです。その憐れみによって、私たちは罪から解放され、神の子として生きることが出来るようになっています。
「憐れみ深い人は憐れみを受ける」。この言葉に初めて接した多くの人が、「何だ取引か」と思うそうです。けれど、聖書が言いたいのは、それとは正反対のことです。それが分かる喩え話が「仲間をゆるさない家来の喩え」(マタイ18:21-35)です。
「王様に多額の借金をした男がいました。王様は男をあわれに思いその負債を許してやります。ところが許されたその男は、自分への少しの借金返済が出来ず、先延ばしを必死で頼む仲間を牢屋に投げ込んでしまいます。それを聞いた王様は男に「私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と怒り、王への借金を返済するまで許さないと男を牢屋に入れてしまいます」。主イエスはこの物語の最後で「わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」と言われています。この喩は「本当に悔い改めているときにのみ、本当の赦しが起こる」ことを教えています。本当に罪を認めて悔い改めるなら、自分は重い罰に処せられて当然と思うはずです。もし罪が許されたら、それは奇跡です。奇跡が起こり罪許されたなら、嬉しくてありがたくて、自分も他の人の罪を許さないではいられなくなるはずなのです。
生まれつき許しの心を持っている人はいません。神の恵みが働き、私たちの心に持ち込んでくださった赦しををきちんと受け止めたとき、人は他人を許せるようになります。これを聖書は「憐れみ深い人は憐れみを受ける」と言い、「自分の中に許す心が無い限り、本当には赦されない」と言います。
それぞれの心に住む聖霊が私たちを憐れみ深くしてくれるなら、私たちは神の憐れみを受けることが出来ます。既に憐れみを受け、その憐れみを十二分に味わっている者であることを自覚し、憐れみ深い人を目指し、ひたすら主に心を向けて行きたいと願います。
2016.7