今回のテーマは「我らのための祈り」です。
聖書は「私たちに必要な糧を今日与えてください」となっていますが、いつも私たちが祈る主の祈りでは「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」です。「必要な糧」と「日用の糧」では少し意味が違うように感じますが、ギリシャ語は同じ単語です。これはマタイによる福音書とルカによる福音書の主の祈りの処だけで使われている単語で、辞書では「それぞれの神学に基づいて色々な訳し方がなされているが、必要なもののための祈りであるという点では一致している」と説明されていました。つまりこの祈りは、「生きて行くために絶対に必要なもの」を神様に求めるもので、蓄えや贅沢のためのものを求める祈りではないということです。そして我々の髪の毛の数さえご存知の神様(マタイ10:30)と私たちが必要と考える物が同じとは限らないことも学ぶ祈りでもあります。
ところで日用の糧を願うとき、祈りが神様との交わりの時であることを忘れていないでしょうか。主イエスは祈りが父なる神と子なる私たちの会話であり、祈りそれ自体が神の喜びにつながっていることを教えるために主の祈りを教えてくださいました。神様との絶えざる触れ合いと交わりの中へ私たちを招いてくださったことを出来るだけ意識したいと思います。日用の糧を求める祈りは、私たちが全面的に神様に依存して生きていることを明言しているのです。私たちが近代的な農機具や化学肥料を駆使しても、御心一つで世界を作物の出来ない状態にすることがお出来になる神様を無視しては一日も生きられません。それは食べ物だけのことではありません。私たちの存在の全てが神の御手の中にあります。そこで「我らの罪を赦したまえ」の祈りが意味を持ってくるのです。
主の祈りの「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」、聖書の「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」については、信徒の方々から色々な思いを聞いています。
まず「信仰告白を行い、洗礼を受け、神に罪赦された自分たちにこの祈りは不要だ」と言う意見です。けれどこの祈りは「負い目・負債」とあるように、神に背く罪の赦しを求める祈りではありません。私たちの義認は既に1回限りの聖めで成し遂げられています。ただ私たちは義とされた後も個々の罪と失敗を繰り返すために汚れています。そこで躓いて父に罪を犯し父を悲しませたことを告白し、主に対する負い目を赦していただかなければなりません。そして赦された確信をいただくのです。
次は「私は赦せていないから、この祈りを祈れない」という意見です。けれど主イエスは「私に負債のある者を赦したという事実に基づいて私の負債を赦してください」と祈れとは言っておられません。そうではなく「ごとく・ように」と言って祈りなさいと教えておられます。ルカによる福音書の放蕩息子のたとえ話で、自己中心を貫いて出て行った息子が無一物になって帰ってきたとき、父は彼に惜しみなく愛を注ぎ無条件で赦しています。主イエスはこの祈りで、私たちが既に赦しをいただいている事実の確信を与えたかったのだと思います。主イエスは、父なる神と子なる私たちの交わりのことだけを考えてくださっていたと言っても良いでしょう。
またここで気付かされるのは、赦しにいたる唯一の道がキリスト以前もキリスト以後もキリストの十字架であるということです。イエス・キリストが流された血によって自分が赦されたと知っている者は心砕かれ、他人を赦さないではいられなくなります。だから「あなたが私にしてくださったから私も他の人々を赦します。私のなすことは不完全ですから、私が赦したのと同じに赦してくださいとは言えません。イエス・キリストの十字架によって神様が私を赦してくださった。だから私も主イエスと同じ態度で彼らを赦したい。赦すよう務めます。そのように、私を赦してください」。これが「ように」の内容です。これで、この願いが神の恵みに満ちていることがお分かりいただけると思います。
主の祈りを教え終わったとき、主イエスは14節15節でこの個所に戻って次のように言われます。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」。それは「真の赦しは人を砕く。だから信仰者は必ず赦すようになる。赦す者とならざるを得ない。心に人を赦す気持ちが起こるのでなければ、赦しを求める祈りは真実ではない」と言うことです。そこでこの祈りは自分自身を試験する祈りともなります。真実でない祈りは自分自身のためになりません。神様は主エスを通して私たちに恵みを与え自分自身について正直になるようにしてくださるだけでなく、私たちが「主の祈り」を機械的に繰り返すことのないようにしてくださっているのです。
さて、最後の祈りは「私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」です。これは「もし、神様の御心に適うなら、私たちがやすやすと誘惑に引っかかったり、誘惑に負けたりする状況に私たちを置かないで下さい」とお願いしているのです。
主イエスはゲッセマネで祈られたとき、ペトロとゼベダイの子の二人に「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい(マタイ26:41)」と言われました。「主の弟子たちの信仰が危険にさらされる事態が必ずある。だから誘惑に陥らないように常に警戒態勢を取れ」。そう教えておられます。
主イエスは、ゲッセマネの園ではそれ以上おっしゃいませんでしたが、主の祈りでは「悪から救い出したまえ・悪い者から救ってください」という祈りがくっついています。「悪」は自分の外にある悪の勢力だけでなく自分自身の中にある悪も含まれるので、「悪い者」ではなく「悪」と訳すのが相応しいと、私は思います。自分の力で自分の中にある悪を取り除けない私たちは、神の力で悪から救い出していただく必要があります。そうしていただかないと神様が回復してくださった交わりの中に留まることができないからです。
神様が望んでくださることで、自分が望むべきこと・神様と正しい関係を持つことを初めて私たちは知る。それが主の祈りを自分の祈りと出来る私たちにとって、一番の恵みなのではないでしょうか。
聖書の主の祈りはこれで終わりますが、主の祈りには「追伸」があります。「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」です。主イエスはこの言葉を口にされませんでした。けれど、こんなに配慮に満ちた祈りを教えていただいたものとして、私たちは感謝と頌栄を献げないではいられません。ある神学者が「信仰者の霊的高さの測りは、祈りの中の賛美と感謝の量である」と言ったように、終わりも始めのように私たちの体と魂と霊の全てを守ってくださる父なる神への賛美で締めくくられるべきだと私は思います。皆さんはいかがですか。