主の祈りも残すところ3つになりました。これら3つは、特に私たち自身の必要や求めに係る祈りです。これまでお話しさせていただいた中で、主の祈りには私たちが祈るべき祈りが全て入っていると申し上げました。これから取り上げる3つの祈りで、それが本当であるとお分かりいただけると思います。主イエスはこの小さな祈りの中で、信仰者の生活のすべてを語りつくしてくださったとさえ言えるのです。主の祈りを通して主イエスが与えてくださった「体と精神と霊」についての大きな表題があるから、私たちは日々の生活の中でその細かいところを満たしていくことができる、といっても良いのです。
もう一つ。主イエスのすごいところは、神と神の栄光についての高い祈りを掲げた直ぐ後に「日ごとの糧を我らに与えたまえ」と祈るよう、教えてくださっていることです。主イエスは「武士は食わねど高楊枝」などというやせ我慢を要求されません。
例えば、まず神を神として崇める高度に霊的な祈りをさせ、次に人間と神との霊的な交わりを求める祈りをさせる。そして信仰者として生活するために必要な祈りに導き、最後におまけのように体の必要について祈らせる。この順番の祈りなら、多くの人から「さすが神の御子が教えてくださった祈りは気高い」と言ってもらえると思います。けれど現実の人間は、食べる物が無くなり命の危険が迫ってくると知的判断の力が落ち、精神的な能力さえ十分に働かなくなるのです。つまり人は、肉体的な命が守られ自分と世界を見る余裕が出来て初めて信仰的に自分の罪深さに気付きます。それが出来てやっと、人は罪とその力から守られる必要を願うようになるのです。だからこそ主イエスは、私たちに肉体的に生き続けられるよう祈ることを教えられたのです。ところが!肉体的な命のために祈ると、私たちは肉体的な命が命の全てではないと、はっきり知ります。
主イエスは「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである (ヨハネ10:10)」と言われ、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです (ヨハネ17:3) 」と言われました。私たちの命を真の命とするのは「神と共に、神との交わりの中を歩む」ことだと教えてくださったのです。主イエスによって自分の罪に気付かされ、教えられ、私たちはやっと何故、私たちの命は真の命から遠いのか思い至ります。そして自らの罪を許していただく必要を知るのです。そして最後に、回復された神様との交わりの楽しさを守るために、そこに何物をも踏み込ませないよう祈り求め続ける大切さに気付くというわけです。
神様を父として知っていたなら、自分たちが神の子どもとして父なる神に頼って生きていることを喜び、呼ばれなくても毎日せっせと神の御許へ通っていたに違いありません。
私が敬愛した神学校の教授は音楽家で画家で西欧の神学者たちと相手の国の言葉で楽しそうに神学を語り合う方でした。あるとき「なぜそんなに趣味が広いのですか」とお尋ねしたら「教会にお仕えするために必要なことはすべてしましたから」とお答えくださいました。まさにそれは神の子とされ、伝道者として召された者たち全員が「そうありたい」と望んでいる生き方でした。その先生の葬儀で御伴侶が挨拶され、「皆様へ『ありがとう、さようなら、また会いましょう、ごめんなさい』と伝える様、夫に言われました」と、おっしゃいました。「ありがとう、さようなら」は、自分の死が近いことを知った人が家族や周囲の人たちによく言い残す言葉です。けれど、「また会いましょう」と「ごめんなさい」はキリスト者特有の挨拶だと思います。
「また会いましょう」は「神様は最後まで自分たちのことを神の子として扱ってくださるに違いない」という、神への信頼に立った言葉です。「私は先に行くけれど、あなたたちも必ず神様によって私がいる場所に来る。一緒に神様の祝宴に加わる日を楽しみに待ってます」という希望の挨拶です。「私は一足先にこの世を去ってあこがれの故郷へ帰ります。あなたたちも早く故郷へ帰れるとよいですね」という招きの言葉でもあるでしょう。
それに対して「ごめんなさい」は全てのキリスト者が言える言葉ではありません。何故なら、功績を称える別れの言葉を述べてくださった方々に対して、「ごめんなさい。私は○○をしませんでした」なんて謝れない。死んでいく自分ために良い葬儀をと考え、努力してくださった人たち方の面目を潰すことなんて出来ない。集まってくださった方たちを大切にするから、傷つけたくないから「ごめんなさい」なんて言わない。そう考える方もおられるからです。
けれど先生の「ごめんなさい」は、自分の一生を通して神様とどう係わって来たかを総括した結果の言葉でした。単純に他人を傷つけたり許せなかったりして来たこと、あるいは善いことをしているつもりで、気付かずに他人を傷つけて来たことを認めて、「ごめんなさい」と許しを請うているのではありません。この「ごめんなさい」は神様との関係で発せられた「ごめんなさい」のコダマです。
自分は神様に仕えていると信じて一生懸命働いてきたけれど、気が付くと神様を利用していた。それなのに神様は自分を赦し続けてくださっていた。自分の周囲にいる人たちを通して自分を赦し、愛し、恵み続けてくださっていた。自分はそんな大きな神様の愛にちっとも応えていない。「ごめんなさい。傲慢にもあなたを信じあなたのために生きていると思っていました。信仰のない私を許してください。あなたの愛がなければ一日も生きられないのに、その愛を当然と思ってごめんなさい。あなたの愛に支えられて今、自分の罪の重さを率直に告白できます。あなたは死のとげの恐怖から本当に私たちを解放してくださった。ありがとうございます。この恵み、この喜びを手放すことがないよう、神様と自分との間に余分なものが何も入り込ませないでください」。先生は感謝を込めて神様に祈っておられた。周囲の方々に「ごめんなさい」ということによって、改めて神様への信仰を公に現わしておられたのだと思います。
先生の4つの言葉を思い起こす度に、主イエスが主の祈りを残してくださったのは、私たちにこうした信仰を望んでおられたからであることを知らされます。そして、父なる神と御子イエス・キリストとの交わりを中心に生活する喜びを味あわせたいと主イエスが望んでくださったから、主の祈りの後半にこれらの3つの祈りをこの順番に置いてくださったのだと、しみじみ納得するのです。
残念ながら今回「日毎の糧を与えたまえ」との具体的な祈りに入ることはできませんでした。それでも、日常生活のための祈りが決して日常生活だけの祈りではないこと。神の国に到達するための人生をかけた祈りであることを分かっていただけたと思います。正しい順序に置かれた祈りが私たちを正しい順序で成長させてくれることを心に留め、大切に主の祈りを祈ってまいりましょう。
2017.9