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2021
20Jun

四谷快談 No12 それでよくな~ぃのだ

  • 四谷快談

 牧師という職業と「宣べ伝える」という行為は大部分重なる。礼拝の中でほぼ時間を独占して「説教」などくどくど宣べる(!)し、その他にも「牧師の思い」だの「四谷快談」だの、情報過多な発信があるし。だけど、開き直るわけではないが、それがボクシというものだ…と、皆さん、アキラメてね (^_-)

 だけど、どれ程情報を大量に発信したとしても、その量と伝わる「感動」とは必ずしも(ほぼ!)比例しない。本来「思い」は伝わらない/伝わり難いものではあるが、伝わらない/伝わりにくいことを「宣べ伝える」のは、そう簡単ではない。頭を悩ませる。

 そうして悩み続けて、単純なあることに気づく。自分が感動していなければ感動は伝わらない。ことばだけの伝達で感動を「教える」ことは出来ない。逆に自分が感動したことをたとえ上手に言葉化出来なかったとしても、思いが伝わったりする。不思議。

 ヨハネ福音書に「初めにことばがあった」と書かれているが、それを日本語にするとき「言葉」ではなく「言」とした(しか言い表せなかった)妙を思う。ワードではなく意志なんだ。

 「(東京オリンピックは)子どもたちに夢や感動を伝える機会になる」と言われても、たぶん「あなた」が言うから伝わらない。思いのない人の「思い」は、「ない」のだから伝わりようがないのだ。書いているわたし、なんだかバカボンのパパになった気分。

 57年前の思い出を党首討論で滔々と宣べていたけど、本人はたぶん感動を伝えたかったのだろう、忖度すればね。だけど伝わらなかった。どうして伝わらなかったか。それは、今それを言うべきところではなかったから。そしてそんな「彼」が言うからだよね。

 「感動」を押しつけられると思っていること自体、まぁ、伝えようという意志も無いということなんだということは伝わる。

6月27日礼拝のご案内

「胸に刻む歩み」滝澤 貢牧師

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